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不正をする企業人であることと、良き夫や父であることは両立してしまう。話題作が挑む、人間の想像力の限界

厚生労働省の毎月勤労統計の不正問題が波紋を呼んでいる。

不正の動機や規模などまだわかっていない事は多く、国会の争点にもなっているようだが、これほど基幹統計という、国の政策を左右する数字が軽視されているという事実は衝撃だ。

統計とは国家の進路を決める上で基礎となる情報だが、これが間違っていては国が進むべき道もわからなくなる。どこかに行こうと地図を開いたら、その地図が狂っていたり、コンパスがきちんと北を示さなかったらどうにもならないのと同じだ。

データの不正を行っているのは行政だけではない。大企業の偽装データに関するニュースが近年話題になることも少なくない。

数字の重大さというのは、数字ばかりを眺めていると、つい忘れがちになるかもしれない。膨大なエクセルデータを日々眺めていると、一つ一つのセルに打ち込まれた数字に果たしてどんな意味があるのか、わからなくなってくる瞬間があるかもしれない。

しかし、政府統計にしろ、民間企業のデータにしろ、数字の向こう側には人間がいる。その数字を基に算出された雇用保険を受け取る人間がいるし、安全データに問題ないと思って乗り物を運転したりする人間がいる。

不正を行う企業や組織は、果たして「数字の向こう」にいる人間のことをどれだけ想像できているだろうか。

そんな社会の状況と呼応するかのように、数字の改ざんを巡る2本の映画が公開中だ。池井戸潤原作の『七つの会議』と俳優の山田孝之がプロデュース業に挑んだ『デイアンドナイト』だ。

この2つの映画は、信じがたい不正のニュースの「なぜ」に答えを与えてくれるように思う。少なくとも、ニュースだけでは伺いしれない、不正に関わる人間社会の厚みをわかりやすく見せてくれている。

ネジ1本にかかる命

野村萬斎や香川照之など、豪華キャスト共演で話題の『七つの会議』は、ネジの強度偽装を巡る物語だ。

中堅メーカー・東京建電の営業一課長の坂戸(片岡愛之助)がパワハラで飛ばされ、気弱な原島(及川光博)がそのポストに収まる。結果主義の北川部長(香川照之)に会議で詰められている最中に、原島の座っていた椅子が壊れ、尻もちをついてしまう。間抜けな格好に一課の社員は爆笑しているが、部長の北川とぐうたら社員の八角(野村萬斎)の2人だけは表情を凍りつかせている。

その椅子のネジには、東京建電も契約している、ある下請けメーカーのものが使われていた。そのメーカーのネジは東京建電の販売した新幹線や電車、飛行機の座席にも使用されているものだ。

実はそのネジの強度は安全規定の半分程度しかないもので、東京建電は下請けも巻き込んだ不正を行っていたのだ。

たかがネジ1本の数字だが、それが誤魔化されていたがゆえに、多くの命が危険にさらされている。新幹線の走行中に座席が故障したら、飛行機の離陸時に椅子が壊れたら…。

たかがネジ1本だが、それは多くの場所で人命を支えている。

組織ぐるみで偽装を隠蔽しようとする東京建電だが、偽装・隠蔽を決めた者たちは目の前の数字しか見えていない。ノルマ、売上、予想される賠償額etc…。その数字の向こうにいる人間は見えていないのだ。

そんな中、八角だけは過去に犯した罪により、数字の向こう側を見ようとする努力を忘れていない。

「事故が起きる確率なんて何万分の一」

山田孝之がプロデューサーに挑んだ意欲作『デイアンドナイト』は、地方の自動車産業における不正を発端にした人間ドラマだ。『七つの会議』は不正の隠蔽を暴く過程をスリリングに描いているが、こちらの作品は不正告発後の受難を描いている。

父の自殺の報を受け帰郷した明石幸次(阿部進之介)は、父の自殺の理由が大企業の不正を告発したことだと知る。明石の父の会社も下請けとして世話になっている大手自動車企業が、タイヤのハブベアリングの強度のデータを改ざんしていた。その強度が弱いとタイヤが急に外れる危険もあるという。

しかし、その企業は地域経済で支配的な立場にあり、逆に明石の父はデマを流したと流布され、村八分にされてしまい、最後には自殺するまで追い詰められ、家族は多額の負債を抱え込まされることになる。

不正は承知しているが、実態はだれも犠牲者は出ていない。騒ぐほうがおかしいと自動車企業の幹部の三宅(田中哲司)は言う。

三宅「事故が起きる確率なんて、何万分の一もないのに、正義ぶって、何百億もの損害生んで、何千人もの人に迷惑かけてるわけでしょ。どっちが正しいかなんて考えたらすぐわかるでしょ」(映画『デイアンドナイト』より)

まだ事故は起きていないが、安全基準を満たさない部品で作られた車に大勢の人が乗っている。三宅もまた、『七つの会議』の重役たちのように数字の向こう側の人間が見えていないのである。

だが、この映画で描かれるのは、その向こう側にある難しさだ。仮に数字の向こう側の人間のことまで想像できていたとしても、告発という行為はとても難しい。

なにしろ、明石の父の行動は、自分のみならず、家族まで不幸になる結果を招いたのだ。家族にまで危害が及んでも社会正義を貫くことができるのか。

主人公の明石の家庭の不幸とは対照的に、三宅は裕福な家でごく真っ当な家庭を営んでいる。不正をする企業幹部であることと、家では良き夫であり、良き父であることは両立する。

山田孝之がプロデューサーを務めた『デイアンドナイト』

自分の生活が不正に支えられたものだとしたら

『七つの会議』のネジの不正で、リコールした場合の予想される賠償額は会社が吹き飛ぶレベルのものだ。知らずのうちにとはいえ、東京建電の社員の生活はある意味、ネジの不正の上に成り立ってしまっている。

『デイアンドナイト』の三宅が言うように、『七つの会議』でも、作中でネジのせいで死んだ人間はいない。被害に遭ったのはせいぜい、椅子が壊れて尻もちをついた原島ぐらいだ。であれば会社を守ることは大勢の社員の生活を守ることであり、それはもしかしたらある種の正義なのかもしれない。

実際、『デイアンドナイト』の三宅は自分を正義だと考えている。三宅の務める自動車会社は地域で支配的な地位にある。それは多くの関連会社がその企業の世話になっているということであり、倒産すればその地域経済が傾くかもしれないということでもある。

三宅には、地域の人々の生活を守っているという自負もあるのだろう。しかし、その正義感は数字の向こう側まで届いていないのである(狭い範囲の正義感は言い換えれば「保身」なのかもしれない)。

自分や周囲の人々の生活が不正の上に成り立っているとしたら、あなたならどうするだろうか。数字の向こうの人間よりも、どうしたって親しい人間の方が情愛も愛着もある。それでも数字の向こうの人間のことを想像する、ということが自分にできるだろうか。

厚労省の役人の方々はきっと頭の良いエリートばかりだろうし、きっと想像力のある人々だろう。そして同僚たちと飲みに行く日もあれば、休日に家族とでかけたりもするのだろう。

そんな生活をおくる中で、数字の向こう側の人々にも同じような生活があることを忘れてしまう瞬間があったのかもしれない。ニュースだけではわからない「心のひだ」を、物語なら想像できる。

そういう想像力を失わないために、物語は社会に必要とされるのだ。

 

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『善悪の屑』の公開中止が決定、公式が「声援は決して忘れません」とツイート。新井浩文容疑者のW主演映画

新井浩文容疑者(2015年)

映画会社日活が2月8日、強制性交の容疑で逮捕された、俳優の新井浩文容疑者が主演する予定だった映画「善悪の屑」の公開を中止すると発表した。今秋公開の予定だった。

日活は「本作を応援いただいております皆さま、また制作スタッフの皆さま、ご出演いただいた皆さまには、深くお詫び申し上げます」と謝罪。

映画の公式アカウントも「残念ながら、公開の中止が決定しました」と報告。続けて、「皆さまのご声援は決して忘れません。ありがとうございました」と投稿した。

皆さまのご声援は決して忘れません。ありがとうございました。

— 映画『善悪の屑』公式 (@zenkuzu1) 2019年2月8日

Twitter上では、「もうほぼ完成してるだろうに。気の毒だ」や「原作知ってて、楽しみにしてたのに」など、悲しみの声が上がっている。

「善悪の屑」と同じく、新井容疑者が出演予定だった映画「台風家族」は6月に公開を予定していたが、「事件の経過を見ながら今後の対応を決めて参ります」として、配給会社が延期を発表している


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細田守監督の「未来のミライ」、アニメ界のアカデミー賞に輝く。授賞式で語ったことは?

細田守監督(2019年)

「サマーウォーズ」や「おおかみこどもの雨と雪」などで知られる細田守監督の最新作「未来のミライ」がアメリカで2月2日(日本時間2月3日)、アニメ界のアカデミー賞と言われる「アニー賞」の長編インディペンデント作品賞に輝いた。

「未来のミライ」は、甘えん坊の男の子と未来からやってきた妹が主人公の「兄妹」の物語。役所広司さんや麻生久美子さん、福山雅治さんなど豪華な俳優たちが声を担った。

細田監督は授賞式で、本作のモデルは自身の子どもであると明かし、「奥さんと、モデルになった子ども達にありがとうと言いたい」と家族への感謝を示した。


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【戦略】映画「パンク侍」、Twitter史上初となる「全編無料公開」の裏側

「パンク侍、斬られて候」メインビジュアル

綾野剛主演の映画「パンク侍、斬られて候」が1月19日(土)、Twitter上で全編無料公開されることが明らかになった。24時間限定で、Twitter社が映画本編の無料公開を実施するのは初。

本作は2018年6月、劇場公開。同年12月から動画配信サービス「dTV」のみで配信されている。

■無料で見るには?

同作は「dTV」のTwitter公式アカウントで1月19日0時からライブ配信される。約121分のライブ配信終了後は、23時59分までであれば、スマートフォンでもPCでも、いつでもどの場面からでも視聴可能。

アカウントのフォローやリツイートなどの条件もなく、誰でも無料で見ることができる。

ただし、19日から20日に日付が変わった瞬間、視聴途中でも公開は終了されてしまうので、注意が必要だ。本編は約121分。遅くとも1月19日の21時57分頃から見始めなければ、最後まで見ることはできないとのことだ。

「パンク侍、斬られて候」は、芥川賞作家である町田康さんの小説が原作のエンタテインメント作品。映画では、宮藤官九郎さんが脚本、綾野剛さんが主演を務め、北川景子さん、浅野忠信さん、豊川悦司さんなどが脇を固める。

映画の製作は、複数の企業が出資する「製作委員会方式」が多い中、本作はdTVを運営するエイベックス通信放送が単独で製作した。製作ではなく配信が本業の企業が単独で映画を作ることは異例として、公開当時、話題になった。

■「チャレンジとしてデジタル上のマスメディアへ」

なぜ今回、Twitterでの無料公開に踏み切ったのか。ハフポスト日本版はエイベックス通信放送の担当者に取材した。

担当者によると、元々はdTVの視聴数を増やすPR施策の一環として、無料公開というアイデアが出ていたという。

その上で、旧来のマスメディアではなく、「新しいことへのチャレンジとして、デジタル上のマスメディアで実施したかった」とのことで、その中でも拡散性に優れたTwitter社に無料公開企画を提案した。

映画本編の無料公開はTwitter社にとって初めての取り組みだったが、快諾。実現に至った。

dTVのみで配信している作品を無料公開すると、同作を目当てにdTVを見る人が減るのではないだろうか?

同担当者は「コンテンツをdTVだけにホールドしたいとは考えていない」といい、今後さらなる「マルチユース展開も予定している」と述べた。

また、他のコンテンツのプロモーションをする上でも、「Twitter社とのパートナーシップ構築の1歩目としてのメリットも強く感じている」とのことだ。

コンテンツビジネスにおいて、DVDや本などの有料コンテンツと同じ内容を無料で公開する手法は徐々に増えている。

最近では、歌手のw-inds.が24時間限定でライブ映像をYouTubeに公開したり、お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣さんが著書をウェブ上で全編公開するなど、様々な取り組みがなされている。

今回、約2時間の映画全編をTwitter上で無料公開することがどのような結果となるのか。今後のコンテンツビジネスの新たな標準になるかもしれない。


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映画『ギャングース』に上映延長を望む声相次ぐ 「裏稼業に走るしかない」若者たちを描いた傑作

©2018「ギャングース」FILM PARTNERS©肥谷圭介・鈴木大介/講談社

裏社会で生きる少年たちを描いた入江悠監督の映画『ギャングース』が、反響を呼んでいる。12月13日時点で上映を終えた劇場は多いが、上映拡大や延長を望む声はTwitterに少なくない。

同作は、裏社会で生きる少年たちが犯罪集団だけを狙う窃盗行為「タタキ」をしながら生きていく様をスリリングに描いたエンターテイメント作品だ。

同時に、雑誌『モーニング』で連載された同名漫画を原作にした実写映画であり、高杉真宙、加藤諒、渡辺大知など人気と実力を兼ね揃えた若手俳優たちが繰り広げる青春の物語でもある。これだけ聞けば、過去にたくさん作られてきた映画のひとつと思うだろう。

しかし、この映画はそれだけではない。サイケ(高杉)、カズキ(加藤)、タケオ(渡辺)という3人の少年たちが、なぜ「タタキ」をしていかないと生きていけないのか。その背景や理由を描いていて、それが現実とつながっているために、社会性のある作品になっているのだ。

「やむをえず罪を犯した」少年たちが主人公だった

『ギャングース』の主人公たちは、それぞれに家庭の事情や虐待、いじめなどから、やむをえず罪を犯して罪を犯して少年院に入っていた人物たちだ。

少年院を出たあとにも身寄りはなく、廃バスを寝床に共同生活をしながら、生きるために裏稼業に従事する。なぜなら、彼らには身分を証明するものがなく、正業には就けないからだ。

これまでも、裏社会で生きる少年たちを描く作品はあっても、その主人公たちが「アウトロー」になってしまった理由は、生きている中で感じるやるせなさを社会にぶつける、という意味などが強かったと思う。

経済的な要因や家庭環境などももちろん関係はしているが、例えば1980年代、尾崎豊が歌詞の中でバイクを盗んだり、校舎の窓を割る描写があるのは、貧困というよりは、自己のアイデンティティからくる、ぶつけようのない苛立ちのほうが理由として大きかったのではないか。

しかし、2018年の日本は、1980年代後半とは比べ物にならないほどの格差社会に突入している

『ギャングース』の登場人物、金子ノブアキ演じる詐欺組織の番頭・加藤は劇中、組織の人間にこんな言葉で早口でまくし立てる。

「日本は今絶賛長期不況中、子供の相対的貧困率13.9%、これはおよそ7人に1人の割合だ、めちゃくちゃ多いぞ。日本列島では224万人の子供が貧困状態、さらにひとり親家庭の貧困率は50.8%、OEなんとかDの調査によると、マジで世界でもトップレベルだ。貧乏でも頑張って勉強して勉強して勉強して大学行こうと思っても、奨学金が返せねえと裁判で訴えられてしまう」

この内容は、フィクションの中に限ったものではない、実際の日本のデータなのである。

牛丼を腹一杯食べることは「ご褒美」。切実な貧困を描いていた

劇中、サイケ達は、「タタキ」で十分なアガリを得たら、腹いっぱい牛丼を食べることを夢見ている。

映画を見終わると、観客である私たちも牛丼が食べたくなってしまうのだが、考えてみると、牛丼は日本の外食産業の中でも、おいしくて腹が満たせて、そして安いものの象徴とされてきたものだ。値段の変動はあるにせよ、今でも並盛は300円程度である。

その牛丼を最大の「ご褒美」としていて、普段はそうそう食べられない世界が、この映画では切実に描かれているのである。

そのうえ、この映画は、少年や子供の貧困を描くにとどまらず、詐欺組織の上層部ですら、貧困の負の連鎖の中にいることも示唆している。では、怒りをむけるべき相手は何なのかという気持ちにもなってくる。

『ギャングース』は、「フィクションだから」とわかりやすさにふらず、こうした現実的な貧困を詳細に描いていた。これには、原作の漫画が鈴木大介によるノンフィクション書籍『家のない少年たち』を原案にしているということもある。

ちょうどこの連載「フィクションは語りかける」でも、タイの映画『バッド・ジーニアス』を紹介した。この作品は『オーシャンズ』シリーズを思わせるハラハラドキドキのカンニングシーンが見もののサスペンスだったが、同時に格差社会や学歴偏重社会についても描いていた。現実とも接続しているという意味では、『ギャングース』と『バッド・ジーニアス』は同じ匂いがある。

アウトローを「かっこいい」ものとして描いていない

私がこの作品を信頼できたのは、サイケ達は単に「お金を得て贅沢をすること」を目指していた点にある。

さらに、彼らは目標の金額に届いたときには、ちゃんと住所を持ち、身分を証明して正業で働き、ここから抜け出すことを夢見ていた。

「アウトローの世界で自分を認めてもらいたい」という動機は一切なく、「そうしないと生きられない」状況が描かれているのだ。下の世代で貧困に悩む子供には、教育をちゃんと受けて欲しいと切実に願っている様子も描かれている。

この映画の中では、アウトローであることが単に「かっこいい」こととは決して描かれないのである。

サイケ、カズキ、タケオは、ここまでの苦境に生きながらも、それぞれの知恵を出し合い協力して、そこからなんとか抜け出そうとしている。そして、その中でちゃんと信頼関係を得ている描写があるからこそ、この映画がどんなに過酷な状況を描いていても、青春映画としても楽しめるのだ。


歌舞伎町伝説の「元中国人」密着選挙映画が見せる日本人の「排外性」–野嶋剛

 現在、東京の「ポレポレ東中野」でドキュメンタリー映画『選挙に出たい』が公開されている。1988年に留学生として来日し、20年以上にわたって歌舞伎町の風俗界で働き続けた伝説的人物、李小牧(り・こまき)さんを密着取材したもので、彼が2015年に日本国籍を取得し、その年の新宿区議会選挙に出馬して落選するまでを追っている。監督の邢菲(ケイヒ)さんは中国出身の女性フリーディレクターで、日本のテレビ番組制作会社でドキュメンタリー番組などを手がけてきた。

父を裏切った政治へのリベンジ

 まずドキュメンタリー作品としてのクオリティーの高さには、目を見張らされた。長期間に及ぶ密着取材で大量の素材を集めたであろうが、よく吟味されており、巧みな編集によって過不足なく仕上げた78分間の作品は、テンポがよく観客を飽きさせない。邢菲監督はこれが初の長編作品というから驚きだ。

「歌舞伎町案内人」として名を馳せた李さんは、歌舞伎町で故郷湖南の料理店「湖南菜館」を経営しながら、『ニューズウィーク日本版』などにコラムを持ち、著書も多数ある。本作は、このユニークな素材に対して適度な距離感を保ちながら、表も裏もあっけらかんとカメラの前にさらけ出す主人公の善悪や美醜を超えた人間性の面白さを掘り起こす。

 なぜ中国の国籍を捨ててまで出馬するのか、という問題に迫るため、邢菲さんは李さんの帰省に同行する。そして文化大革命時代に毛沢東を支持する「造反派」として権力の側に立ちながら、文革後に政治犯として投獄され、家族に辛酸を嘗めさせることになった父親への思いを語らせているパートは、圧巻である。

 李さんの青少年時代は中国の政治によって破壊され、役者への夢も閉ざされた。それなのに、日本で政治に希望を寄せて選挙に出た。その理由を、李小牧さんはこう語る。

「父は政治を志して失敗に終わった。だから俺は日本で試してみたい。民主社会の政治というものを」

「俺は父の影響を受けている」

「政治はやっぱり崇高なものだと思うんだ」「誰もが参加すべきもの。それが政治だ」

 中国を追われるように日本に渡った李さんは、父を裏切った政治に対して、いい意味での「リベンジ」をここ日本で果たそうとしているのである。

「中国人嫌いなんだよ」

 映画評としては「ぜひ観に行ってほしい」という以上に言うことはないのだが、この作品を観た日本人として、どうしても注目せざるを得なかったところがある。それは作品中に登場する日本人の反中的言動である。

 李さんの選挙活動中、通りがかったある高齢の女性は、「李」という名前から彼が韓国人だと信じ込んでいた。カメラを向けた邢菲さんが、李さんは元中国人であると告げると、こんなセリフが洩れる。

「中国の人じゃ私、支持できない」

「悪いけど、韓国の人はまだいいよ。合わせようとしてくれるから。日本人を嫌いでも」

 その理由を問われると、女性は隣人にうるさい中国人がいて、注意したらトラブルになったからだと明かす。

「怖いよ、性格が」

「女の人よ。日本人だったら気をつけるでしょう」

「それは違うと思うのね」

「ちょっと敬遠する」

 と、言葉は続いていく。

 サラリーマンの若い男性は、歩きながら邢菲さんとこんな会話を交わした。

 男「あんた中国人だろ」 

 邢菲さん「私も中国人です」

 男「オレ中国人嫌いなんだよ。間接侵略しているからね。香港と台湾はまだ信用できるけど、大陸の人間は大嫌いなんだ」

 邢菲さん「彼に対しても?」

 男「落ちてほしいね」

 また、喫茶店の店主の女性は、こう語る。

「みんな日本人は文句を言わないで与えられた仕事をこなしているから、なんとかなっているのよ。そこへさ、中国人が来てさ、それでもう薬やるし、カードは盗むし、殺しも入ったからね それからピッキングが入った。もうないものはないものね、中国人がやったのは」

「私は日本人です」

 そうした言葉の刃は、日本人の老若男女から李さん自身にも次々に向けられる。それでも彼は踏みとどまって「これが民主主義」と笑顔を見せ続ける。だが、表情ががらりと変わった唯一の瞬間があった。

 李さんが街頭演説をしているとき、男性の通行人から「中国に帰れ」という罵声が飛んだのだ。早足で立ち去っていく男性に対して、李さんは追いかけながら、叫び続けた。

「どこに帰れというんですか。私は日本人です。元中国人ですよ」

 この正論に、男性から一切の返事はなく、雑踏の中に消えていった。

 やらせではないかと疑わせるほどにストレートな日本人たちの肉声が、この作品には詰まっている。すべての日本人が彼らと同じだというつもりはない。ただ、その強烈な排他性が、我々の社会の一部に確かに存在することを突きつけられるのみだ。

 それらの声は、相手が邢菲さんだからこそ語られ、得られたものではなかっただろうか。

 もし、日本人がビデオカメラ向けていたら、彼らはこんな話をしなかったのではないか。世間の評判を重視する日本人は、日本人同士で差別的な話をすることは滅多にない。中国人の、しかも、若い女性が相手だから、大胆に語った部分があったように私は思う。

 私の個人的感想だが、中国人が日本人を批判するときは、仲間内や身内で語っている言葉をそのまま日本人に投げつける。日本人の場合は、仲間内や身内では語らないようなことを中国人に投げつけるように見える。

格好悪かった「民主党」

 日本の反中感情の拡大には、中国の反日的行動や在日中国人の素行など、それなりの理由がある。しかし、その中国国家や中国人全体を、目の前にいる李さんという、日本社会に最も深く根付いた中国人の1人であり、日本に帰化した人物に、すべて背負わせるような言動は、あまりにもアンフェアではないか。

「こと中国人に対しては仕方がない」という言い訳は成り立たない。もし、人権に敏感な国であれば、一言でアウトになる発言ばかりである。さらに言えば、李さんは選挙に出ている時点で、中国人ではないのだ。

 かねて私は外国人の知人に「日本人は排外的だ」と言われるたびに、「そんなことはない。誤解している」などと反論してきた。入国管理や住民登録などの制度的な欠陥は認めつつ、日本人そのものの本質を弁護してきた人間なのだが、この作品を観たことを機に、2度と自信を持って「日本人は排外的ではない」と語れないなとつくづく思った。

 繰り返しになるが、邢菲監督は、こうした点にスポットを当てるためにこの作品を撮ったわけではない。上映後の舞台挨拶で「日本人を嫌いになりませんでしたか」と質問された彼女が、「中国人にそう思われる理由があるので、私たちも反省しなくてはなりません」と淡々と述べた姿が印象に残った。

 最後に付け加えれば、李さんの出馬に対して、格好悪い対応を見せたのは当時の民主党だった。最初は党の公認候補としての出馬をもちかけながら、歌舞伎町で活躍した外国人であるという理由で、扱いを公認から推薦に取り下げた。ところが、無所属で出馬した李さんの当選が見えてきた途端、手のひらを返して彼のポスターに民主党のシールを貼るという一貫性のなさ。多様性や他者への包摂を掲げた政党らしくなく、その後に起きた党の消滅も、むべなるかなと思わせた。

『選挙に出たい』の上映情報はこちらから。


野嶋剛 1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2018年12月8日フォーサイトより転載)


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貧困家庭に生まれた天才高校生が、お金のためにカンニングを許す。映画『バッド・ジーニアス』が描いた格差社会

学生たちのハラハラドキドキのカンニングバトルを描いて、ロングランヒット中の『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』。「高校生版の『オーシャンズ11』」との呼び声も高いが、学歴偏重社会や格差の現実なども描いた社会派な面もあるエンターテインメント作品だ。

貧しい家庭に生まれた成績優秀な女子高校生リンが、試験やテストで友人に「カンニング」のビジネスをもちかけられる、というストーリーになっている。

この度、その監督のナタウット・プーンピリヤと主人公・リン役のチュティモン・ジョンジャルーンスックジンが来日した。学歴偏重社会や格差の問題はタイのみならず、日本にも横たわるテーマである。監督とチュティモンさんに、タイの現状などについても聞いた。

主人公リンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジン

子供が落第をしないよう、親がいろんな手立てをする。その気持ちは子供にとって「重い」

プーンピリヤ監督は、本作のプロデューサーから中国で実際に起こったカンニング事件をモチーフにして映画を作らないかと話を持ち掛けられ、1年以上をかけて脚本を執筆した。

エンターテインメント作品に社会問題がうまくハマった本作であるが、そのバランスとりには苦心したようだ。

プーンピリヤ「自分たちで取材した実際の社会問題や、自分たちの経験談を取り入れようとしていたんですが、最初はその部分が多くなってしまい、真面目過ぎる映画に傾いていたんです。それで泣く泣く削って今のバランスに落ち着きました」

監督は大学を卒業後、映像の仕事に就き、その後ニューヨークで学んだ経歴を持つ。監督は、本作を作るにあたって、取材をしてみて、どんなことを感じたのだろう。

プーンピリヤ監督「自分の場合は、学生時代から映画が好きで、映画を撮りたいと思って時間を割いてきました。今回の映画を作るにあたって、いろんな人にインタビューしてみて、子供が落第をしないように、親がいろんな手立てを考えているということがわかりました。ただ、同時に、その気持ちは子供にとっては重いものだということもわかりました。全員が勉強が得意とは限らないですからね」

学校の成績は常にトップで、家は裕福ではないものの、奨学生として名門に入ったリン役のジョンジャルーンスックジンの場合はどうだろうか。

ジョンジャルーンスックジン「私はずっと勉強は大事にしてきました。やはり生きていく上での基礎になるものなので。だから、学生時代から仕事をやってきましたが、学業を優先できるようにマネージャーにも相談していました。この春に大学を卒業しましたが、いずれ院に行きたいという気持ちも持っています」

貧困のため、学ぶ機会自体が少ない。その格差が描かれる

本作は、学歴偏重社会に一石を投じるものでもある。しかし、筆者が見ていて思ったのは、学ぶということ自体は否定されるべきものではないし、問題は、また別のところにもあるのではないかということだ。

例えば、映画の中でリンは貧困ながらも勉強に対しての意欲がある。しかし、貧困であることで、学ぶ機会自体が少ない、という状況もあるのではないか。

プーンピリヤ「確かに、タイでもそんな状況があり、『お金で教育の機会を買う』という言い方もあるくらいです。例えばタイでトップ10に入る学校というのは、何万、何十万バーツの授業料が必要だし、お金持ちの子供が多いことは事実です」

「ただ、映画にも出てくるように、奨学金で通える子供もいます。教育は大切です。ただ、試験の点数で将来が決まることには疑問を持っていて、将来が決まるということであれば、それだけではないとも思うんです」

カンニング映画といえば、我々がイメージするのは、フランスの「ザ・カンニング」や日本の「That’s カンニング! 史上最大の作戦?」などのコメディ色の強いものだったが、この作品にはコミカルな部分は少なく、むしろビターな後味が残る。

プーンピリヤ「それは意図通りなんです。なぜかというと、私はコメディが撮れない、面白くない人間なので…。(笑)」

そう冗談めかすが、ビターに見えるのは、主人公のリンとともにカンニングに参加したバンクというキャラクターの描き方も大きいだろう。主人公リンと境遇が重なるバンクは、母子家庭で貧困の中勉強に励み、名門高校の奨学生となった。

リンもバンクも、カンニングは悪いことだと知っている。

しかし、一大カンニング・プロジェクトに加担してしまうのは、彼らが貧困家庭に育ち、お金を必要としているからだ。お金を払ってでも試験に受かればいいと思う富裕層の学生と、お金で買った成績でも通用してしまうという社会に問題がある。

バンクとリン

ある意味、バンクはそんな学歴偏重社会、経済至上主義社会の「被害者」でもあるような場面も描かれ、そこがビターに見えるし、後を引く所以である。

プーンピリヤ「私が信じている言葉に『社会が人を変える』というものがあります。バンクはまだ学生で、自分探しをする世代で、彼の考え方は社会の影響を受けて良い方向にも悪い方向にも変化していきます。若いときは周囲の環境で考え方が変わってしまうものなので、彼をちゃんと救済できる環境、社会でなければいけないということを考えて撮りました」

監督は、この映画の中での救済は、リンの決断ではないかと語る。

プーンピリヤ「欧米の言葉に『絆創膏をひっぺがえす』というものがあるんです。今は痛いかもしれないけれど、将来のためには必要な措置もあるということです。つまりは、リンの告白こそが、バンクの救済措置ではないかと思うんです」

ナタウット・プーンピリヤ監督

「感情豊かで愛嬌がある」というステレオタイプを覆したヒロインの魅力

本作の魅力は、ハラハラドキドキの展開、社会問題との接合だけではない。

“ジーニアス”なヒロイン、リンのキャラクターによるところも大きい。通常、日本を含むアジアのヒロインというと、明るく健気、感情豊かでちょっと抜けたところもあるが、愛らしいというのが定番であったように思う。もっとも、昨今はそんなヒロイン像を覆そうという作品もある。

本作の主人公のリンは、どちらかというと愛嬌がなく、感情も大きくは表現しない。かつてのよくあるヒロイン像というのなら、リンと友達になり、カンニングを依頼するグレースのほうが近いのではないだろうか。

プーンピリヤ「リンはリーダーシップが取れるキャラクターなので、甘い雰囲気ではそう見えないと思いました。今回の登場人物は自分の中の一部が反映されていると思います。リンの考え方は現在の自分に近いです。バンクは過去の自分。パットはお金持ちでイケメンだから、そうなりたいと思う気持ちもないわけではないし、グレースのような可愛くて癒してくれるタイプは彼女にしたいと考える人は多いかもしれないけれど、何かを与えるわけではないキャラクターなんです」

「凝り固まったジェンダー観」でキャラクターが描かれない新しさ

リンを演じたジョンジャルーンスックジンは、撮影が始まったときには、この”静”の演技が難しかったという。

ジョンジャルーンスックジン「私もどちらかというとリーダーシップはあるほうだけど、リンのように自分に自信があり、何かを見てすぐに考えが浮かぶような天才的な人間ではありません。だから、内面から近づけて演技するのは大変でした」

「でも、表面的なものにはしたくなかったので、アクティング・コーチや監督と相談しながらリンを掴んでいきました。私自身は、友達と騒いだりもしますが、リンの場合は、本当に体から感情が沸き起こったときにしか、表情や行動には出さないから、心で思ってもないのに、大げさに行動するような表現にはしないようにと考えていました」

プーンピリヤ「チームのリーダーはポーカーフェイスで、気持ちを周囲に読み取らせないのは定番です。そんな部分をリンというキャラクターの魅力にしたかったんです。ラッキーだったのは、ジョンジャルーンスックジンさんが、そんなリンの抑えた演技がきっちり表現できたことです。顔の表情をちょっと動かすだけで、彼女が何を考えているのかがわかる演技でした。グレースの場合は真逆でしたよね」

多くの女性キャラは、感情豊かで大げさに行動することを求められすぎではないかとすら思えてくるし、昨今、日本の作品でも、そんな決めつけから放たれたキャラクターを描こうとしていることもある。ドラマ『アンナチュラル』で石原さとみが演じた役なども、そんな風に誇張したキャラクターとは一線を画したものにしようとした結果と言われている。

リンの表情に変化は少ないのだが、足が一歩下がる仕草で心の中のとまどいを表し、まばたき一つで驚きが表現されていた。そんな些細な動きのほうが、むしろ伝わることが多い。凝り固まったジェンダー観でキャラクターが描かれていないことも、本作の良さではないかと感じる。

(執筆:西森路代、編集:生田綾)

作品情報「バッド・ジーニアス 危険な天才たち

新宿武蔵野館ほか、全国で公開中

監督:ナタウット・プーンピリヤ

脚本:ナタウット・プーンピリヤ、タニーダ・ハンタウィーワッタナー、ワスドーン・ピヤロンナ

キャスト:チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、チャーノン・サンティナトーンクン、イッサヤー・ホースワン、ティーラドン・スパパンピンヨー、タネート・ワラークンヌクロ


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原動力は、世の中への怒り。生きづらいこの時代に、池松壮亮さんが映画に込める思い

池松壮亮さん

「なんかもう、ちょっと危機感を感じますよね。街を歩いても、テレビを見ても。自分も含めて、ちょっと世の中全体がおかしい気がします」

そう話すのは、俳優・池松壮亮さん、28歳。

『ラストサムライ』で12歳にして映画デビュー。近年は『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』、『万引き家族』などの話題作で好演を果たし、実力派俳優として活躍中だ。11月24日(土)には、鬼才・塚本晋也監督との初タッグとなる主演映画『斬、』が公開された。

物語の舞台は、開国をめぐり激動に揺れた江戸時代末期の日本。池松さんは、人を斬ることに疑問を抱き、時代に翻弄される若武者・杢之進を怪演した。

人間の暴力性が鋭く描かれた作品だが、池松さんは2018年の「いま」という時代にも、「閉塞感や怒りが満ちているように感じる」と語る。

その言葉の意味とは? ハフポスト日本版のインタビューに、池松さんが答えた。

池松壮亮

「世の中がもっと良くなってほしい」 祈りを込めた

ーー『斬、』は、人間の暴力性や時代に翻弄される姿をうつす、今の時代を反映するかのような映画でした。

今の時代に向けて、自分が精一杯できる「祈り」みたいなものを込めました。20代の俳優としての自分は『斬、』をやるためにあったんじゃないか、と思えるくらい。

僕だけじゃなくて、塚本晋也監督や蒼井優さんをふくめ、一緒にこの映画を作り上げた人たちの「祈り」が結集した作品だと思っています。

何に対して祈っているのかと聞かれると、うまく表現できないんですけど…。(笑)すごく簡単に言うとしたら、「世の中がもっと良くなってほしい」みたいなことなんでしょうね。

この『斬、』を撮影中に、3回くらいJアラートが鳴ってるんですよ。ミサイルが発射されたという情報が飛び交う中で映画を撮ってるわけです。

世界では、目や耳を防ぎたくなるようなことがたくさん起こっていて、世の中がいい方向に向かっているかと言ったら、決してそうではないと思います。

そんな状況の中で自分ができることって、何にもないんですよね。何もできないんですよ。映画を撮っているだけで。

この状況でも映画をやってるんだから、もう自分にできることは「祈る」しかない、ということです。もっと言うと、人間が最終的に何ができるかとなると、「祈る」ことしかできないんだと思います。

今の世の中に対して思うこと、社会に対して思うこと。そういうものを、「祈り」というかたちで込められてこそ、映画に力が宿ると思っていますし、人の心に届くと信じています。

そういうものを映画に込めたいとずっと思っているし、じゃなきゃ映画をやっている意味もないと思っています。

「塚本映画のファンだった」と話す池松さん。「20代の自分はこの映画のために俳優をやってきたんじゃないか、と思えるくらいの作品だった」と振り返った。

映画をやるなら、時代の空気を伝えることに「責任を取らないといけない」

ーーそう感じるほど、世の中が「悪い」方向に向かっていると思いますか?

どうなんでしょうね。悲しいと思うのは、誰も「時代がいい方向に変わる」って言わないですよね。自分自身、新しい時代に何か期待が持てるかと聞かれたら、そうだとは言えないのが本音なので。

なんかもう、ちょっと危機感を感じますよね。街を歩いても、テレビを見ても。自分も含めて、ちょっと世の中全体がおかしい気がします。

たとえば、渋谷のハロウィンで起きたこともその結果の一つだと思います。人間が暴徒化して、何か煮えくり返りそうな感じになってる。

僕はたまたま俳優というものに出会って長年やってきて。まだこの場所で自分がやりたいこと、やるべきことがあると思ってる。それでこの仕事を続けている感覚はあります。

みんなが怒った方がいいところまでとっくにきている中で、その「怒り方」や「反撃」の仕方として、僕は映画という純粋なものにまだかけているんだと思います。

『斬、』について塚本晋也監督は、反戦への思いなどが制作背景にあると明かしている。

ーーすごく強い責任感や使命感を持たれているんですね。

日本映画と社会って、どんどん離れていっていると感じていて。

でも、現代で映画をやるとしたら、少なくとも時代の空気や世の中に漂っているもの、みんなが必要としているもの、怒っていること、喜びや悲しさとか、そういったものを伝えることに「責任を取らないといけない」と思っているんです。

僕が俳優を志した頃は、「そういう思いを俳優が持つべきではない」と言われがちでした。

俳優は「言葉」を持つべきじゃないし、何かを発信する立場ではない。俳優はただ作品のピースの一つであれ、という風潮があったと思います。

でも、もうそんな時代じゃないでしょう、という感じです。

今日はなんとか生き抜いて、明日がんばろう

ーー世の中に対する「怒り」のようなものが、池松さんにとって原動力になっているのでしょうか。

さっき言った「祈り」というのも、根源も「怒り」だったり「傷」だったりしますよね。たしかに、ずっと怒っているような気持ちはあります。

何もできない自分の無力さに対してもそうだし、人に対してではなく、漠然としたものへの「怒り」みたいなものがある。何かを発表しなくちゃいけない思いがある。

だから俳優をやっていられるような気がします。

こんな時代だし、せめて一生懸命生きていたいなと思います。一生懸命生きていたいし、ボケッとしてらんないな、という気持ちです。

ーー池松さんが話すように、今の時代に生きづらさや閉塞感を感じている人はたくさんいると思います。そんな中で希望を抱いて生きていくためには、どうしたらいいと思いますか?

どこまでできるのか、そもそもできているのかはわからないですけど…。映画ができるのは、明日がんばろう、と伝えることじゃないかなと思います。

明日何が起きるかわからないし、もしかしたら明日、世界がなくなってしまうかもしれない。

でも、ひょっとしたら明日いいことがあるかもしれないし、誰かが一緒に怒ってくれるかもしれない。だから今日はなんとか生き抜いて、明日がんばろう。そういう感じではないでしょうか。(笑)

【作品情報】

斬、』(ざん、)

11 月 24 日(土)よりユーロスペースほか全国公開

監督、脚本、撮影、編集、製作:塚本晋也
出演:池松壮亮、蒼井優、中村達也、前田隆成、塚本晋也


(撮影:増永彩子、聞き手・執筆:生田綾、南麻理江)


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「華氏119」は“21世紀のファシズム”の映画だ。マイケル・ムーア監督がいま日本人に伝えたいこと

マイケル・ムーア監督

友へ

悪い知らせを伝えるのは残念なことだが、昨年(2015年)の夏、ドナルド・トランプが共和党の大統領候補になるだろうと君たちに言った時も、俺ははっきりと伝えていた。そして今や、君たちにとってさらにもっとおぞましい、気の滅入るような知らせがある。それは、ドナルド・トランプが、11月の大統領選で勝つということだ。この浅ましくて無知で危険な、パートタイムのお笑いタレント兼フルタイムのソシオパス(社会病質者)は、俺たちの次期大統領になるだろう。

……

映画監督のマイケル・ムーア氏は2016年7月、ハフポストUS版のブログで、トランプ氏が次期大統領になることを予言していた。多くのアメリカの人々は、初の女性大統領の誕生を確信していたにも関わらずーー。

なぜトランプ大統領は誕生したのか。

11月2日に公開されたマイケル・ムーア監督の最新作「華氏119」は、圧倒的な事実の映像を積み重ねて、その理由を浮かび上がらせる。

私たちはオバマ前大統領の何を見ていたのか。ムーア監督の故郷、ミシガン州フリントの街でオバマ氏は何をしたのか。民主党は選挙で何をしたのか。「ラストベルト」と称される工業地帯の労働者たちは、どう感じていたのか。

事実の点と点をつなぎ、線にして時代を紡ぐムーア監督。大統領選だけでなく、選挙後のアメリカに生まれた新たな希望ーー立ち上がる若者たちや地域住民の姿も、彼のカメラはとらえている。

トランプ大統領の就任後、アメリカに起きた変化とは? 本作で日本の人々に伝えたいことは?11月6日の中間選挙を前に、インタビューを掲載する。

マイケル・ムーア監督

――ムーア監督は、トランプ大統領が就任してからの2年間をどう捉えていますか?

予想よりも悪い事態になった2年間だと思う。

いろいろ小さな変化が常に起こっているが、それに全部目を向けられていないのは悲しい。トランプ大統領がこの国を破壊しようとしている詳細に目が届かないことが……。

――例えば、どんな変化でしょう? もう少し具体例に説明してもらえますか。

例えば、アメリカには環境保護エイジェンシーというのがあって、子どもの環境保護エイジェンシーという部署がある。この部署は、子供の健康を守るための環境、空気や水といった環境を保護する仕事をしている。

トランプ大統領は、この部署のリーダーとスタッフを全員解雇した。

人は、それはちっぽけな事じゃないか、と言うかもしれない。ただ、このような事が毎日起こっている。トランプ大統領は、アメリカ政府の構造自体を破壊し解体しようとしているんだ。

ミシガン州知事を突撃。人体に有害な鉛が検出されたフリントの水を知事の家に撒き散らすムーア監督。

ーートランプ大統領の暴言やさまざまな問題行動を、野党やメディアは止めることができていません。

僕はその努力を精一杯している。彼をあざ笑っているだけでは打倒できないと思う。

最初は彼を本気にした人はいなかった。僕は彼が本気で大統領になろうとしていると思った。その僕の意見に耳を傾けてくれた人は誰もいなかった。

アメリカの「ビルー・マーハー」というリベラルなテレビのトーク・ショーに出演して、「トランプが選挙に勝つ」といったとき、僕はブーイングにあった。

さらに僕は、ミシガン、ウエスコンシン、ペンシルベニア州で勝つと具体的に指摘した。そして現実的に、トランプはこの3つの州で勝利した。

単にトランプを取り除くためにこの映画を作ったわけではないんだ。この映画のテーマはさらにシリアスなんだよ。

2016年アメリカ合衆国大統領選挙で、労働者階級や若者の支持を集めたバーニー・サンダース上院議員(左)にインタビューするムーア監督

――この映画で、日本の人たちに伝えたいことは?

この映画は、究極的にはファシズムについての映画だ。それも”21世紀のファシズム”だ。

トランプのような人間が、人を自分の味方につけ、社会を引き継ぐかたちをとっている。それも、人を強制するのではなく、「僕についてきてくれれば、僕は君たちのためにこんなことができる」というかたちなんだ。

非常に危険な事が起こっている。アメリカ以外の国でも同様なことが起こりつつある。

そういう意味で、この映画は日本にむけてのメッセージが多くこめられた映画だと思う。アメリカで起こっているようなことが日本で起こらないための警告だよ。

この映画を観た日本の観客が、首相に「トランプ大統領と距離を置いてほしい」という懇願の手紙を出してくれればと思う。

今のところ、安倍首相はトランプ大統領の親友の一人のように見える。よい事ではないね。

――”21世紀のファシズム”と表現されましたが、映画の中では、ヒトラーとトランプの共通点を指摘していますね。どういう意図でしょうか。

僕は、トランプがヒトラーのようだとは思っていない。その逆だ。ヒトラーはトランプのようだと言っているんだよ。

映画では、トランプの声がヒトラーの口から出てくる。もしトランプがヒトラーのようだと言いたいなら、トランプにハナヒゲやハーケンクロイツや腕章をつけたと思う。それはしなかった。

だが、あの時代のドイツと現代のアメリカには共通点があると思う。教育をうけた文化的な人間が、非常に悪い判断を下した、という点で。

――映画には、中間選挙の「台風の目」として注目される、白人男性候補を破ったヒスパニック系の20代女性も登場します。ムーア監督は、11月6日の中間選挙をどう予想しますか。

まだ分からないが、女性や若者が多く投票して津波のような効果をもたらすかもしれない。

そして共和党を負かすかもしれない。

ムーア監督。立ち上がった若者たちとともに。

逆に、多くの人がトランプ大統領への惨敗を痛感し、とくに(性的暴行疑惑も浮上した保守派の)ブレット・カバナー氏が最高裁判判事に選ばれてたことにあまりに落ち込んで、投票にもいかないかもしれない。

……..


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死を描くことは生を描くこと。映画『ガンジスに還る』監督インタビュー

主演のアディル・ フセイン(左)とラリット・ベヘル(右)

 死の迎え方について考えたことはあるだろうか。死に方ではなく死の迎え方について。

 非ボリウッドのインド映画『ガンジスに還る』が10月27日から公開される。

 ある日、不思議な夢を見て死期を悟った老人、ダヤはガンジス河の畔にある聖地バラナシに行くと家族に告げる。1人で行かせるわけにもいかず、仕事が忙しい息子のラジーヴはしぶしぶ付き添うことにする。

 バラナシには良き死を求める人々が集う「解脱の家」という場所があり、親子はその家にたどり着き父の死が訪れるまで滞在することになる。日々の仕事に追われ心が埋没していたラジーヴだったが、父との交流と雄大なガンジスと街の人々に心をほぐされていく。

 ヒンドゥー教独特の死生観を、普遍的な親子の絆の再生の物語とつなぎ合わせた本作を監督したのは、弱冠27歳のシュバシシュ・ブティヤニ。生と死への深い洞察をユーモアも交えて気品高く描き出している。

 ブティヤニ監督に本作の製作経緯や自身の死生観について聞いた。

 

バラナシには死の一大産業がある

シュバシシュ・ブティアニ監督

――この映画の舞台の街、バラナシに興味を抱いたきっかけは何だったのですか。

シュバシシュ・ブティアニ監督(以下ブティアニ):自分が知らない土地に行ってみようと旅をしていた時期があって、道中バラナシには死を迎える人のためのホテルがあると聞いて行ってみたんです。そこで魅力的な話をたくさん聞くことができて映画にしようと思ったんです。

 

――映画に出てくるようなホテルが、あの街にはたくさんあるのですか。

ブティアニ:はい。バラナシで死を迎えると救済されるという考えがまずあって、ああいったホテルが作られるようになりました。インド中からたくさんの人があの地を訪れ最期を迎えるんです。ホテルごとにルールも違っていて、例えば映画にもあるように15日間しか滞在できないところもあれば、部屋を好きなようにアレンジできるホテルもあります。それから木の下に集まって集会を開くホテルとか、それぞれいろんな特色があるんです。映画では、私が見てきたいろいろなホテルの特色をくっつけて自分なりのホテルを作ってみました。

映画の中のガンジス河

――なるほど。ではあの街で死を迎えるホテルは割と大きな産業になっているのでしょうか。

ブティアニ:バラナシでは、死は一大産業と言っていいでしょう。バラナシで死を迎えるのは一種のステータスになっています。ホテルに泊まらないにしても、バラナシで葬儀をする人たちも大勢います。葬儀にもいろんな準備が必要ですから、そうした一切が全て揃った街なんです。あの街のそういう面を取り上げても一本の映画ができるでしょうね。

ホテル業よりも葬儀の方が大きなビジネスになっているようで、ホテルに関してはあまり利益追求の姿勢は見られなかったですね。中には光熱費しか請求しないホテルもあるくらいですし、企業がサポートしているホテルもありますね。

 

――映画はホテルのことだけでなく、観光的な側面も描いていますね。

ブティアニ:死のプロセスと関わりの薄いシーンなのでカットすることも考えましたが、主人公たちはあの街に初めて来たのだし、だったらツーリズム的な行動もするだろうと思ってそういうシーンも入れることにしました。宗教ツーリズムとして有名な街ですし、美しい景色もたくさん見せられるし、それらもあの街の大事な側面ですしね。祭りのシーンは、撮影のために祭りを再現する予算はありませんでしたから、本物の祭りを撮影しています。

 

この映画を作るまで死について何も知らなかった

親と子の世代間の意識の違いも映画の重要なポイント

――監督はまだ20代とお若いですが、なぜ死を迎えるプロセスに惹かれたのでしょうか。

ブティアニ:まず、私は自分を若いと思っていませんが(笑)、私自身はこの映画を作る前は死について何も知らないんだということに気が付きました。

 この映画は、死への準備を描いたものですが、これはヒンドゥー教の死生観に基づいています。親しい人の死に直面する時、人はどうするのか、死を描くことは反対に生を描くことにもつながると思っています。そうした死への準備を通じた生の姿を、役者たちに言葉で語らせるのではなく、実際に生きてもらうことで描こうと思いました。

死期の近い父ダヤを演じるラリット・ベヘル

――この映画は死の問題の他、世代問題も描いていると思います。主人公の父親はバラナシで死を迎えることにこだわりがありますが、主人公はその重要性に最初のうちは今ひとつピンときていません。監督ぐらいの世代ではああいった死生観はどの程度共有されているものなのでしょうか。

ブティアニ:私の世代はまだそこまで死について考えていませんね。おそらく60代くらいになればバラナシに行くのかどうか考え始めるのではと思います。意見は多様なので、世代を代表する考えを挙げるのは難しいですが、あるレポートによればバラナシで最期を迎えたいと考える人は減少傾向にはあるようです。

 

――この映画を作り終えて、監督自身はどうお考えですか、バラナシで最期を迎えようという気持ちになりましたか。

ブティアニ:とても美しい街ですが、1人で行きたいかと言われるとわからないですね。私にはまだ子どもがいませんが、子どもを持てたら、その子に連れて行ってほしいと思います。


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