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初詣のおみくじ、持ち帰った方が良い?

おみくじ

2019/01/01 11:52 ウェザーニュース

初詣で引いたおみくじ。境内(けいだい)の木に結びつけられている光景を目にしますが、持ち帰ってはいけないのでしょうか。

「持ち帰る」は少数派

ウェザーニュースでは12月16日に「おみくじ引いた後どうする?」というアンケートを実施しました(回答:9,031人)。結果は「木に結ぶ」が最も多く、次に多いのが「運勢による」となりました。「持ち帰る」という方は少数派で約2割となっています。

7段階ないし12段階の運勢

おみくじは神様や仏様のお告げで、引いた人の運勢を占うものです。

良い運勢から順に、【大吉>中吉>小吉>吉>末吉>凶>大凶】の7段階だったり、【大吉>中吉>小吉>吉>半吉>末吉>末小吉>凶>小凶>半凶>末凶>大凶】の12段階だったりします。

おみくじの種類や吉凶の入っている割合は神社やお寺によって違います。では、引いたおみくじはどうすればよいのでしょうか?

家に持ち帰って読み返すべし

大凶や凶などを引いたら、境内の木の枝などに結んでいく方が多いかと思います。しかし、「持ち帰ることを勧めています」と福徳神社(東京)の真木千明宮司は言います。

「本来、おみくじというのは、単に吉凶の判断を目的として引くのではなく、健康運や金運など、そこに示されている内容を今後の生活の指針としていくためのもの。

運勢が悪いと、持ち帰らずに結んでいく人も多いですが、持ち帰っても問題はないのです。むしろ引いたおみくじをよく読み返し、自分自身の今後の行動の戒めとするためにも、持ち帰った方が望ましいでしょう」(真木宮司)

冒頭で紹介したアンケートで「持ち帰る」と回答した方の中には「翌年まで財布に入れて、たまに見ています」「おみくじに書かれた和歌を良く読んで人生の指針とするため、手帳などに入れています」といったコメントも。

今年のおみくじは、吉凶にかかわらず、家に持ち帰って、じっくり読み返してみてはいかがでしょうか。

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硬派スポーツ雑誌の元祖『Number』、文藝春秋から産声【創刊号ブログ#6】

たまさぶろ

  単なる「雑誌好き」から、私は「創刊号マニア」かもしれない…そう考えるようになったのは、この創刊号を手にした時からだろうか。そんな思い入れがあるため、この一冊の紹介はもっと後まで温存しておこうと考えていた。

 しかし、このブログも今後どう体制が変更になるか不透明のため、いきなりエース級を登板させる。

 『Number』は現在も発行され続けているスポーツ雑誌である旨、解説の必要はないだろう。1980年4月20日号、『スポーツグラフィック・ナンバー』として創刊。

  この創刊は同時代的に記憶に残っているために、ことさら思い入れが強い。中学3年になる頃、幼馴染のウチへ遊び行くと、壁にどでかく「Number 1」と記されたポスターが貼られ、それには王貞治が大きくフィーチャーされていた。もちろん「1」と言えば、想起されるのは王である。王は1979年、一本足打法となって以来、初めて打撃主要3部門のタイトルをすべて逃し、「晩年」という文字が頭をもたげて来るシーズンだった。

 しかし、この「ナンバー1」のキャンペーンポスターは、特大であり、ポスターの中の王からは、鬼気とした迫力さえ感じられ、圧倒された記憶が残っている。なにしろ1978年のシーズンには前人未到の800号本塁打を達成したばかり。「まだまだ王はやれるに違いない」と昭和の中学生に思わせるのは十分だった。余談だが、私は王の799号ホームランをこの幼馴染と後楽園球場の外野スタンドで目撃している。

  結局、王は1980年のシーズンを最後に現役引退。その記憶とともにナンバーの創刊も記憶に留まり続けていた。

  発行人・編集人は岡崎満義。初代編集長である同氏は京都大学卒。『文藝春秋』、『週刊文春』などを経て、本誌で初めて編集長を務めた。文藝春秋社では常務、専務、副社長を歴任。退任した現在でも同誌WEBに寄稿するなどスポーツの論客ぶりを見せている。

 創刊号には時折、「創刊にあたり」など決意表明が掲載されているケースも見られるが、本誌では目次の後、7ページ目にほぼ1ページを割き、岡崎のメッセージを掲載している。文春の並ならぬ決意の現れでもあろう。

  創刊時はアメリカの『スポーツ・イラストレイテッド』誌と提携。「スポーツを写真で見せる」というそれまで日本にはなかった共通項を顕著に押し出している。

  ポスターのイメージが強すぎたのか、私は長らく創刊号の表紙も王貞治だと思いこんでいた。ご覧の通り、ちょっと腰砕けになるようなサイバーパンク的なイラストなのが、この創刊号における唯一の不満だ。もっとも「サイバーパンク」の旗手とされたウイリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』が出版されたのは、1984年であることを考えると、この表紙デザインは当時、最先端の文化…と考えるべきなのかもしれない。

 巻頭は、スポーツ・イラストレイテッド出身のカメラマン、ニール・ライファーが収めた歴史的なスポーツ写真からスタート。モハメッド・アリが1966年、クリーブランド・ウイリアムズをKOしたシーンを天井のカメラから収めた一葉などスポーツ史を知る上で貴重な作品ばかりが並ぶ。

  特集「中国に暴走族はいるか?」を寄稿しているのは芥川賞作家・丸山健二。こうした書き手のラインナップは、同賞を主催している文春ならでは。また故・山際淳司の手による「江夏の21球」は日本スポーツルポ史に残る傑作として知られる。創刊号からして、こうしたストーリーを産み落としてしまうあたり、さすが文藝春秋社。「文春砲」ばかりで話題をさらう今とは、時代も出版社も違う。創刊にあたりTV CMもオンエアされていたが、このルポのせいか、王ではなく、江夏が起用されていたと記憶している。

 50ページ目からは、期待された王貞治のインタビューが「39歳11カ月 熱いスウィング」として掲載されている。王貞治というと、どうにも雲の上の存在と考えがちだが、このインタビューを読み込むと引退間際の王の苦悩が生々しく表現されている。

 この年は「ドカベン」が南海ホークスに入団。今は亡き、香川伸行の初々しいルーキー姿のルポも目を引く。もっとも「ランニングとセックスの熱い関係」、「バスト社会学の研究が緊急課題!?」などという特集も組まれているのは、前時代における愛嬌としておこう。

  現在発行されている本誌ももちろん読み応えはあるが、創刊時はモノクロ・ページが主流のため、より「読み物」雑誌として仕上がっている。

  興味深いのは雑誌タイトル。表紙の題字をご覧頂きおわかりになる通り、私は『Number 1』までが雑誌名だと思いこんでいたのだが、『Number』が誌名であり、後ろの数字は発行号数だった。正式名称は、『スポーツグラフィック・ナンバー』。現在はこの号数は小さめに表記されているので、誤解を招くことはない。『Number 1』のほうがインパクトは強かったのになぁ…と少々ぼやく。実は毎号「Number 1」、「Number 2」、「Number 3」と数字を含め雑誌名としたかったらしいが、登録商標として認可されなかったという裏話を後日、耳に挟んだ。

 いつも通り広告についても眺めておこう。表2は見開きで、サントリー缶ビール。後に「ペンギンズバー」なるサントリーのチェーンが出店される時代が来るが、この当時からペンギンをモチーフに使用していたことがわかる。ウチの父も同様だったが当時は「缶ビールは缶の味がするので邪道。男は瓶ビールだ」という時代だった。がゆえに、わざわざ「缶ビール」をアピールする必要があった。

  表4は日本航空。「自分でルートを企画できる海外旅行」とタグラインがある。今となっては当たり前の旅行スタイルだが、当時はまだまだ海外が遠い時代だったことがわかる。もちろん、昭和の少年にとって、海外などは夢の世界でしかなかった。表3は見開きで「ジャーディン」が代理店を務めているスコッチ・ウイスキー「ホワイトホース」広告。突然、BAR評論家の立場に戻って言うと、この頃のホワイトホースは本当に美味い。

 その前のページには「三菱銀行」カードローンの広告。なんと「最高10万円」までカードローンを使用できるという売り文句。行名といい金額といい、48年の歳月を感じさせる。

  実は創刊から最初の10年は赤字だったという噂もある。しかし、Jリーグの開幕などの後押しを受け、その存在を確立。1990年代の最盛期には50万部に近づく勢いだった。雑誌の定番となった同誌の成功には、他出版社も目をつけていた。

  2002年には集英社の『Sportiva(スポルティーバ)』(2010年で定期刊行を休止)。サンスポは1999年から『ゼッケン』を創刊するが同年中に休刊させ、2000年9月から角川書店と共同で『Sports Yeah!(スポーツヤァ)』を発行。これも2006年12月をもって「廃刊」となっている。最後発は光文社の『VS(ヴァーサス)』。2004年10月に創刊され、2006年6月で休刊されたが、個人的にはこの雑誌がもっとも読み応えがあったと考えている。

  結果から眺めると、スポーツ誌はNumberにより始まり、Numberだけが生き残っている。 平成も終焉を迎える今、スポーツの媒体は、各スポーツ新聞のWEBサイトに加え、SportivaがWEB媒体として生き残っているように、Yahoo!の「スポナビ」やgooの「アスリート・チャンネル」などのように、今後はインターネット・プロトコルを介したメディアとして続いていくのだろう。

 スポーツの「読み物」雑誌がなくなるのは、スポーツ・ソリューションの専門家としても、いち書き手としても寂しい限り。せっかく来年はラグビーW杯が日本で開催され、2020年の東京オリパラと続くだけに、気骨のあるスポーツ雑誌が登場しないものかと考え込む。

  そうでないのなら、今後も『Number』の孤軍奮闘を期待するしかない。


年末年始に読みたい、仕事で圧倒的に役立つ5冊。主に、ネットメディアで働く人たちへ

ここ最近、インターネットメディアが直面している課題とは何かを考えている。

表層的な課題はいろんな本で触れられているので、ここでは少し角度を変えて考えてみたいと思い5冊を選んだ。テーマは「ネットメディアの仕事で圧倒的に役立つ5冊」。ぜひ年末年始に手に取ってほしい。

(1)沢木耕太郎『作家との遭遇―全作家論―

インターネットメディアが発展してから圧倒的に増えた職業の一つに「編集長」「編集者(エディター)」「ライター」がある。名乗れば誰でもできる仕事だが、名乗る以上にはプロとして「読む力」を求められる仕事というのが共通点だろう。

読むというのは一見すると誰でもできるように思えるが、それは違う。的確に読むというのは、何かを創ると同じクリエイティブな作業なのだ。ノンフィクション作家として新しい時代を切り開いていった著者が学生時代から現代に至るまで書いた作家論は「読むこと」とは何かを教えてくれる。

(2)高村薫『レディ・ジョーカー

大げさに短い言葉で感情を刺激して共感を勝ち取る文章がインターネット上にあふれている。こうした文章は確かに面白いが、面白いだけだ。1回読めばもう十分だし、暇つぶし以上の価値を見出すことはできない。

文章を書くとはどのようなことなのか。エンターテイメントと文学を圧倒的な筆力で両立させた高村薫から学ぶことができる。余計な言葉を一切使わずに、シーンを描き切る技術と観察力に圧倒される。物事を描写するとはどういうことなのか。基本はすべて、ここにあると言っていい。複雑な事象であっても、簡潔な言葉を重ねるだけで書けるというのは驚きでしかない。

(3)伊坂幸太郎『火星に住むつもりかい?

政治的な立場を問わず、正義感に燃えて「敵」を見つけて攻撃するというやり方を取る人たちがいる。この手の人たちは何かにつけ徹底的にやらないと気が済まず、自分たちに落ち度があっても認めたら負けだと思うらしい。

正義感自体はとても大切な感情だが、どこか余裕を失ってしまうと危うさに転化する。

危うさを知りたければ、この小説を読むといい。伊坂さんの作品はいくつか体系にわけることができるが、僕が好きなのは、本作に代表される管理や監視といった大きな流れの中で、なんとか個人が生き延びようとする作品群だ。

一人になってもなお生きていく指針になるもの。それを大事にしたくなる。

(4)ロバート・フランク『成功する人は偶然を味方にする

会社でいかに大きな事業を任されたのか、最大で何PVを叩き出しか、ポジションを得るために自分はいかに努力をしてきたかという話を自慢げにする人によく出会う。この業界ではセルフブランディングが大事らしく、彼らは華麗な職歴とともにいかに自分がすごいかを語る。そんな人に出会ったときは、ぜひこの本を開いてほしい。

著者はコーネル大で教鞭を執る経済学者だ。「あなたがいまのポジションにいるのは、努力や才能ももちろんあるけど、やはり運に恵まれたんですね」。こう言われて、むっとするような人には注意をしたほうがいい。人は一般的に、成功は「自分の能力と努力」によるものであると評価する傾向にあり、逆に失敗する不運だと考える。だからこそ、成功はどこまでが努力で、どの程度が運なのかを見極める必要があるのだ。運を過小評価する人は「成功しない人は努力が足りない」まであと一歩のところにいる。

そんな人と一緒に働きたい?

(5)糸井重里『インターネット的

2001年に出版された一冊。そこから10数年、いやもうすぐ20年という時間が経っているにもかかわらず少しも古さを感じないのはなぜか。そこにインターネットの本質や可能性がすべて詰まっているからだ。

技術は常に変化していくけれど、体現されている価値観はそうそう変わらない。本質を捉えるとは、価値観を捉えることである。現状を嘆くだけでなく、変わらないインターネットの可能性を再認識する上で年末年始に読んでおきたい一冊だ。


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滝沢秀明さん、LINE CMで感謝のメッセージ 「来年から立場は変わり、新たなステージが待っています」

滝沢秀明さん

2018年をもって芸能活動から引退する滝沢秀明さんが、LINEが開始する「お年玉つき年賀スタンプ」キャンペーンのアンバサダーに就任し、都内で開かれた記者会見に登壇した。

今回のキャンペーンに合わせて、LINEでは12月27日から、滝沢さんの表情で制作した年賀スタンプを販売。また、31日から2019年1月2日まで、滝沢さんが出演するテレビCMが放映される。

滝沢秀明さんのスタンプ素材4種

タッキー、年内で芸能界引退へ…。

滝沢さんは9月13日、今井翼さんとのユニット・タッキー&翼を解散し、年内で芸能活動を引退すると発表した。今後は、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長が手がけるタレント育成、公演プロデュースを継承するという。

滝沢秀明さんとLINEキャラクターのブラウン

CMでは、これまで応援してくれたファンらにメッセージを向けるように、ミュージカル調で「どんな時にもあなたがいて そっと背中を押してくれた だから踏みだせました いま感謝の気持ちを込めて 大切なあなたに送ります」と歌い上げている。

滝沢さんは会見で、「リアルタイムな心情をCMにのせてくださったのかな。ファンの皆さんにメッセージが伝わるんじゃないかと思い、嬉しく思っています」と喜びをあらわにした。

2019年、滝沢さんは新たな挑戦に向かう。

最後に来年の抱負を聞かれると、「来年から立場は変わって、新たなステージが待っています。みなさんが笑顔になれるような作品をどんどん作って頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたします」と決意を語った。

滝沢秀明さん


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『素顔のヴィルトゥオーソ』第3回 ヴァイオリニスト木嶋真優–フォーサイト編集部

 日本とヨーロッパを行き来しながらソリストとして活躍している木嶋真優さんは、次代を担う若きヴァイオリニストだ。

 世界的な名教師ザハール・ブロン(1947~)に才能を見出され、14歳で渡独。現代を代表するチェリスト兼指揮者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927~2007)に引き合わされ、彼をして「世界で最も優れた若手ヴァイオリニスト」と言わしめた。

 ケルン音楽大学と同大学院を首席で卒業した現在は、ソリストとしての活動に軸足を置きつつ、オーケストラとの共演や音楽祭への出演、ロストロポーヴィチ氏の教えだった楽曲のプロデュースなどを行っている。

「10年を経てようやく言われたことをやっている」

 そう言って本人は笑う。

「天才少女」から挫折を乗り越え「実力派」へと脱皮した彼女の軌跡を追った。

ブロンとの出会い

 兵庫県神戸市に生まれた木嶋さんがヴァイオリンを始めたのは、3歳半の時。

「ピアノニストの母が、私にも音楽に触れる機会をつくろうと思ったらしいのですが、ピアノを弾くにはまだ手が小さすぎた。それで小さいサイズのあるヴァイオリンにしたと聞いています」

 習い始めて1年も経たない頃、子供向けコンクールで金賞に輝いた。しかも4、5歳と3年連続して優勝したという。

「子供の頃は、結果が出れば単純に嬉しいでしょ。それでヴァイオリンを弾くのが楽しくて楽しくて仕方がなかったのです。小学校受験をするにあたってヴァイオリンの他にピアノ、バレエ、お絵かき、塾といろいろな習い事をしていましたが、ヴァイオリンが1番好きでしたね。はじめた頃から、将来はヴァイオリニストになりたいと思っていたくらい。コンサートに行く度に、”いつか私もあの舞台に立ちたい”と思ったことを、今でもよく覚えています」 

 転機が訪れたのは、中学生の頃。のちに生涯の「師」と仰ぐことになるブロンと出会った。

最初のレッスンで直感

「先生は1999年から2002年まで年に3回、神奈川横浜市で子供向けのヴァイオリンセミナーを開いていました。公開レッスンをして一緒にコンサートを開くというもので、私もメンバーに選ばれたのですが、最初のレッスンの時に、”この先生についていきたい!”と直感したのです。短時間で先生の要求に応えないといけないので、即行性や対応力、物怖じしない性格が求められる。それが私のフィーリングとピタッと合った感じがしました」

 さらに翌2000年9月、若手ヴァイオリニストの登竜門と言われる「ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール・ジュニア部門」で、最高位(1位なしの2位)を受賞。ブロンが拠点を置くドイツ・ケルンへの留学が決まり、木嶋さんの人生は一気に動き出す。

「ブロン先生はケルン音楽大学やロシアのノヴォシビルスク音楽院、スペインのソフィア王妃音楽大学など、ヨーロッパ各地の大学で教えていました。私は前々から先生の指導を受けるために留学したいと考えていたのですが、両親から”せめて日本で義務教育を終えてから”と反対されていました。そんな中、このコンクールで最高位をいただいたことで、先生が両親に”中学卒業を待たずに留学した方がいい”と勧めてくださり、ついに両親の許しが出たのです」

 母と2人でケルンに渡り、ブロンとの”格闘”が始まった。

キラ星のごとき門下生たち

 1947年、ソ連西部のウラリスク(現カザフスタンのオラル)に生まれたザハール・ブロンは、フランスのパリ音楽院、アメリカのジュリアード音楽院と並んで世界3大音楽院と評されるモスクワ音楽院などでヴァイオリンを学び、ソリストとしての地歩を固めていく。指導者としての名声を高めるようになったのは、ノヴォシビルスク音楽院で教鞭をとりはじめた1970年代後半のこと。この学び舎から多くの優秀なヴァイオリニストが育ち、いつしかブロンは”世界的な名教師”として知られるようになる。

 日本にも教え子が多く、木嶋さんの他、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めている樫本大進、2007年にチャイコフスキー国際コンクールで優勝した神尾真由子、最近では先の「ヴィエニャフスキ」を史上最年少で制した服部百音などがいる。

 日本でも人気の高いロシアのワディム・レーピンも樫本と同時期の門下生で、今年6月には、レーピンが芸術監督を務める「トランス=シベリア芸術祭」の企画として70歳を迎えた師ブロンを日本に招聘し、『スーパー☆ヴァイオリニスト夢の饗宴』と題し、樫本、服部らも出演した師の記念コンサートが開催された。木嶋さんは同じタイミングで他国での演奏会があり、残念ながら参加できなかった。

 ケルンでのブロンの指導はどんなものだったのか。

「凝縮された時間の中での彼だけのメソッドがあり、それがあまりにも濃厚で強烈なのです。ケルン音楽大学でプライベートレッスンを受ける生徒が私を含めて十数人いて、1人ずつレッスンを受けていくのですが、時間が決まっていないので大変でした。レッスンはロシア語で、私は当初、ロシア語もドイツ語も英語も話せなかったので、言語はまったく分かりませんでした。それでも先生のレッスンを受けると、徐々に内面をこじ開けられます。もちろん、人それぞれ性格が違うので、1回のレッスンが終わっても気持ちがオープンにならない生徒もいますが、私だけでなく、どの生徒のレッスンを見ても、必ず見違えるほどよくなっていました」

1年の大半はブロンと旅

 教室となっていたケルン音楽大学の214号室の前は、常にレッスンを待つ生徒で溢れていた。

「アポイントを入れていなくても、生徒がレッスンを希望すると”ちょっと待っていなさい”と言うのがブロン先生。もしかしたら空いた時間に見てもらえるかもしれないので、私たちのようなプライベートレッスンの生徒だけでなく、大学の受講生も押しかけます。それぞれ待っている間に廊下やそこかしこで練習するので、ミュートをつけていてもうるさいのでしょう。他の教室から苦情が来て、お手洗いで練習したこともあります」

 様々な大学で教えているブロンにつき従い、ケルンだけではなくヨーロッパ各地を一緒に旅しながらレッスンを受けた。

「当時は先生のレッスンを毎日受けていた生徒が私も含めて3~4人いて、彼らと家族が先生に帯同するのです。私は母と一緒に回り、1年365日のうち360日は先生のレッスンを受けていました。門下生の中でも最年少だったので、素晴らしい先輩たちの間で勉強できたこはとても大きな経験でした」

 ブロンと訪れた土地の中で、最も木嶋さんの印象に残っているのが、シベリアの中心都市ノヴォシビルスク。ブロンが40年来教鞭をとり続けている音楽院のある町だ。

「毎年、ここで年越しをしていたこともあり、1年の3分の1くらいはブロン先生とノヴォシビルスクにいたように思います。4~5年前に訪れたらすっかり都会になっていましたが、当時はまだソ連の匂いが残っていて、しかもマイナス25~30度という極寒のシベリア。私には大きなカルチャーショックでした。いま、どんな曲を弾きたいか聞かれると、ロシアの作曲家がパッと思い浮かぶのは、この時の影響かもしれません」

暴走していた反抗期

 ケルンではドイツ語を猛勉強しながら現地の高校に通っていた木嶋さん。授業が終わるとケルン音楽大学に直行してレッスンを受け、さらに宿題をしたり予習をしたりと、大忙しだった。

 多感な十代の女の子が父親代わりの師に反発することがあったのも、仕方のないことだったかもしれない。

「私は反抗期が凄くて、かなり暴走していましたね(笑)」

「レッスンで注意されたことが翌日に直っていないと怒られるわけですが、一気にいろいろなことを言われるので、1日ではとてもじゃないけれど修正できない。時には逃げ出したくなるし、友達とも遊びたい。そこで、自分で先生に電話をかけてキャンセルしたり、214号室の前まで行って並んでいる生徒に声をかけ、勝手にレッスンを譲ったりしていました」

 もちろん、あとで叱咤が飛ぶが、お構いなし。時にはレッスン中に癇癪を起こすこともあった。

「先生に言われたことに対応できないと自分でも嫌になってきてしまい、お尻を向けて弾いたこともあれば、”もうやめます”と逆ギレして、ヴァイオリンを片付けて帰ったこともあります。あるいはレッスンが始まるなり、”その時計どこのですか?””そのスーツ新しいですよね?”と、どうでもいい話をして、レッスン時間を短くしようとしたことも。そんなことをする生徒は他にいなかったので、”お前ほど手こずった生徒はいない”と、今でも先生に言われます」

今思えばオーディション

 手のかかる子ほど可愛いもの。ブロンは愛弟子の飛躍を後押しした。木嶋さんを「優秀な生徒」としてロストロポーヴィチに紹介し、華々しいコンサートデビューを飾らせたのである。

「ある時、ブロン先生から”ロストロポーヴィチさんに会う機会をつくったから、4つの協奏曲を準備していこう”と言われたのです。4曲のどの部分を弾くよう求められるか分からないので、事前にみっちり練習し、ウィーンでロストロポーヴィチさんに会いました。確かコンサートのリハーサルの合間だったと思います。10分程の短い時間でしたが、今思えばオーディションだったのでしょう。その直後に、ロストロポーヴィチさんが指揮者を務めるコンサートへの出演が一気に決まったのです」

 2005年2月から7月まで、「サンタ・チェチーリア国立管弦楽団」(イタリア・ローマ)、「ワシントン・ナショナル交響楽団」(アメリカ・ワシントンD.C.)、「ロンドン交響楽団」(イギリス・ロンドン)、「バイエルン放送交響楽団」(ドイツ・ミュンヘン)という世界の名だたるオーケストラと共演。

 ドイツでは、「カラヤンがアンネ=ゾフィー・ムターを世界的に注目させたように、ロストロポーヴィチは木嶋真優を世に出した」と評された。14歳で「クラシックの帝王」ことヘルベルト・フォン・カラヤンと共演し、一気にスターダムを駆け上がったムターは、「ヴァイオリンの女王」と評される。小さい頃から彼女に憧れていた木嶋さんにとっては、この上ない賛辞だっただろう。

挑戦したショスタコーヴィチ

「コンサート出演に先立ち、ロストロポーヴィチさんから弾きたい曲を聞かれ、リストを出したんですね。それをもとに演目が決まっていったのですが、ロンドン公演だけ決まりませんでした。そうしたら、ロストロポーヴィチさんがショスタコーヴィチを弾いたらどうか、と言う。私は反対しました。ショスタコーヴィチはそれまでのレパートリーになかったばかりか、弾いたことさえありませんでした。そのうえ、自分のものにするには、ものすごく深く勉強しないといけない。10代の私には自信がなかったのです。それでもロストロポーヴィチさんは、”私が教えるからこれをやろう”と。それでヴァイオリン協奏曲第1番に挑戦したのです」

 とりわけ交響曲に秀でた20世紀を代表するソ連の作曲家、ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906~75)。実はソ連のバクー(現アゼルバイジャンの首都)に生まれたロストロポーヴィチはモスクワ音楽院でショスタコーヴィチに師事し、アメリカに亡命後も交流。ともに作曲したり、ショスタコーヴィチの曲を初演したこともあった。

「よくロストロポーヴィチさんから”新しい作曲家と一緒に曲をつくりなさい””これから音楽家としての幅を広げていきたいなら、曲の創作段階から関わることを考えなさい”と言われました。その頃はピンときませんでしたが、いまでは納得できる。私は3年前から曲のプロデュースをしていて、10年がかりでようやくロストロポーヴィチさんの指導に従っているのですが、確かに音楽家としての新しい可能性を感じます。あの時にショスタコーヴィチに初挑戦した経験は、ずっと私の糧になっている」

一緒に弾くだけで自然と学べる

 ロストロポーヴィチの指導はブロンとは全く違うものだった。

「ブロン先生は”さっき指のここを使っていたけど、そうじゃなくて、こうだよね”という細かい指示が多い。ヴァイオリンを弾くことに関してのテクニックや舞台に臨むときの心構えなど、基本的なことを教えてくださいます。でも、ロストロポーヴィチさんはテクニックについては何も言いません。細かいことも一切、言わない。ブロン先生から教えていただいていた私の中の”ブロン先生の世界”というものがある。それを広げてくれたのが、ロストロポーヴィチさんです。不思議なことに、彼に寄り添う形で一緒に弾くだけで、自然と学んでいる。そうなるべくして、そうなる。リハーサルやコンサートを重ねるごとに大変多くのことを学ばせていただきました」

 これほど偉大なマエストロにつくことに緊張はなかったのだろうか。

「ロストロポーヴィチさんだけでなくブロン先生の前でも、緊張したという記憶がありません。ある年齢ならではの勢いってありますよね。現実を分かっていない頃がいちばん強い。若い子がコンクールで賞を獲る理由がすごくよく分かります。若い時だけの勢いや速さ、華やかさ、ほんの一瞬の若いながらの輝きというのがある。私もそういう時期だったのだと思います」

 当時の彼女は、まさに怖いモノ知らず。

「コンクールでもコンサートでも、緊張しないばかりか、本番で練習よりうまく弾けなかったためしがありませんでした。ベストは常に舞台の上だった。練習で1度もうまくいかなかったところが、舞台でうまくいくのが当たり前だったのです」

抱き始めたコンクールへの違和感

 しかし、これまで数々の天才少年少女が「実力派」に脱皮する過程で経験してきたであろう試練に、木嶋さんも直面した。

「誰もがある時から変わっていきます。私はいま、こんなに凄い人と一緒に演奏しているのか、という現実が分かってくると、同時にプレッシャーものしかかってくる。そういう邪念が入ってくると、膨らむものもありますが、弱点にもなる」

 コンクールでもコンサートでも緊張するようになり、コンクールについては疑問を感じるようになったという。

「若い頃はコンクールで1位になったら素直に嬉しかったですし、結果を残したいという一心で臨めましたが、いろいろな人と比較され、順位をつけるという本来の芸術からはかけ離れた視点で見られることに、だんだん違和感を抱くようになってきたのです。そもそも音楽は順位をつけるようなものではないのではないか、あの作曲家とこの作曲家のどちらが好きかと聞かれても答えられないのに、それぞれ好みの違う生身の人間にジャッジされ、点数化され、結果を残すなんて不可能に近いのではないか、と。それでもコンクールに出て結果が出なければ、自分が全否定されたような気持ちになってしまうわけですが、結果に左右されるのってどうなんだろう、と思ってしまった」

 そう思うようになった途端、本番に弱くなった。

「やはり結果を残したい、1位になりたいという強い思いで臨まないと、ちょっとした疑問が弱さとして出てしまいます。結果、うまくいかないことが2~3回続き、しばらく出るのをやめたのです。コンクールで結果を残し、ゼロからコンサート活動を始めようとしているわけではなかったので、自分にとって必ずしも重要ではないだろう、と。代わりにコンサート活動を広げ、1つ1ついいコンサートを積み重ねていこうと決めました」

最後のコンクールで優勝

 2012年にケルン音楽大学を、2015年に同大学院をいずれも首席で卒業し、ソリストとして本格始動した木嶋さん。

 リサイタルのみならず、国内外のオーケストラとの共演、室内楽への挑戦、CDのレコーディング、NHK大河ドラマ『平清盛』の音楽に参加したりと、精力的に活動を続けた。

 だが、やはり後ろ髪を引かれるものがあった。

「これから長い音楽人生を歩んでいく中で、後味の悪いコンクールの終わり方では嫌だなという思いが残っていました。結果に繋がるかどうかは別として、自分の納得できる演奏をして終わりにしたいな、と」

 そこで最後の挑戦と決めて出場したのが、2016年秋の第1回「上海アイザック・スターン国際ヴァイオリン・コンクール」である。復帰戦の結果は、なんと優勝。”最後にして最大”の勝利だった。

「もちろん不満点はありましたが、自分の演奏はできたと感じた。それが結果に繋がったのは、本当に大きかった」

“今日のあの一音が忘れられない”

 これからの目標を聞くと、「リスクを取る」という意外な返事が返ってきた。

「小さい頃からヴァイオリンをやっていると、何回も何回も同じ曲を弾きます。自分のスタイルもだんだん確立されてくるし、ある程度の演奏をキープできるようにもなる。そのスタイルを続けていれば、安定するし、楽ですよね。その反面、最初からあらすじがすべて見えてしまうので、その曲をはじめて弾いた時のような新鮮な気持ちや驚き、ドキドキ感が失われてしまいがち。そのドキドキ感を忘れていないように弾くのは、簡単ではありませんが、私は常に新鮮な気持ちで臨みたいのです」

 演奏家にとっても観客にとっても一期一会のコンサート。CDもレコードもなかった時代は、それこそが音楽だったはず。

「コンサートを聴きに来てくださった方にとって、”今日のあの一音が忘れられない””あのフレーズが忘れられない”というものがないと、手ぶらで帰ることになる。”あれもこれも良かったね”と言いつつ、食事をしたら忘れてしまうような内容では実りがないと思うのです。ましてや、いつも同じ演奏ならCDを聞けば済むわけで、何度もコンサートに足を運んでいただく意味がありません。”今日はあの時のあの音を聴くために来たんだね”と思っていただけるようなコンサートを重ねていけたらいいなと思います」

「音を楽しむ」という原点に立ち戻った「実力派」の進化は止まらない。

【木嶋真優さんテレビ出演】

■番組:BSTBS『#ストイック女子』

■放送日時:12月19日(水)22:00~22:54

■詳細:番組公式HP

【コンサート情報】

■NHKナゴヤニューイヤーコンサート2019

■会場:愛知県芸術劇場コンサートホール(名古屋市)

■日時:2019年1月3日(木)17:00開演

■問合:NHKプラネット中部 / TEL.052-952-7381

※上記以外の予定はこちらから。「ジャパン・アーツ」木嶋真優サイト

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(2018年12月19日フォーサイトより転載)


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バスキアが10代を過ごしたNYはどんな街だったのか。映画『バスキア、10代最後のとき』の監督に聞く

生前のジャン=ミシェル・バスキア

 20世紀のアメリカを代表するアーティストの1人、ジャン=ミシェル・バスキア。グラフィティ・アートの先駆者であり、1970年代から80年代のニューヨークのストリートカルチャーの象徴でもある彼のドキュメンタリー映画『バスキア、10代最後のとき』が12月22日から公開される。

 本作は、バスキアと当時のニューヨークを知る人物たちの証言を基に、バスキアの知られざる人物像や、70年代のニューヨーク社会とカルチャームーブメントに迫る。単なる伝記ドキュメンタリーにとどまらず、当時のニューヨークの社会が何を産み出し、バスキアは何を象徴する存在なのかに迫る作品だ。

 本作はバスキアが10代を過ごした70年末から80年代はじめに焦点を当てている。アーティストとして成功したバスキアのエピソードは控えめに、あえて彼が無名の時代を取り上げているのが特徴だ。

 当時のニューヨークは治安が非常に悪く、ニューヨークの最悪の時期とも言われるが、そんな時代にバスキアやキース・ヘリングを始めとする新しいアーティストが登場し、ヒップホップなどの新しいムーブメントが産まれた。バスキアの実像に迫るとともにニューヨークの歴史についても示唆に富む内容となっている。

 本作の監督を務めたのはニューヨーク出身の俳優・映画監督のサラ・ドライバー。ジム・ジャームッシュのパートナーとしても知られている彼女は、ジャームッシュとともに当時のバスキアを知る人物でもある。彼女の言葉を交えつつ本作を紹介してみたい。

 

なぜ10代のバスキアなのか

映画の1シーン

 

 本作のユニークな点は、バスキアがアーティストとして成功する前の話が数多く出てくる点だ。それは、これまで語られることの少なかったバスキアの側面に迫るという意味とともに、当時のアーティストたちの創作の原点を探る意味でも重要な意味を持つだろう。

 本作の監督、サラ・ドライバーはこう語る。

「エイズも不動産もアート・ブームもなかった。お金や野心でやる気を起こすような人はいなかった。名声、成功、野心の定義は、今とは全く違っていました。無一文になっても詩を発表することは、成功の頂点でした」

 映画ではバスキアと時代をともにしたアーティストたちの証言が数多く出てくるが、バスキアのその日暮らしの様子が浮かび上がる。友人たちの家に転がり込んでは、また別の家に移動するような生活をおくり、時には路上で寝泊まりすることもあったようだ。

 貧しさに価値を置いているわけでは決してないのだろうが、作品を作る純真な動機そのままに行動することが、当時のアーティストたちにとっての重要な価値観であり、それは有名になる前の彼の姿にこそ色濃く刻印されていると監督は考えたのだろう。

 

レーガン政権以降、変わってしまったニューヨーク

バスキアの生きた時代の落書きだらけのNYの地下鉄の様子

 

 70年代のニューヨークは、どん底の時代と言われている。金融危機と不況で経済状態が悪化、治安も最悪で、多くの中産階級が郊外に移住した。70年代末のニューヨークはきらびやかな世界経済の中心都市というよりも、犯罪都市のような様相を呈していた。

 中産階級の代わりにニューヨークに住み着いたのは、お金のない若いアーティストたちだった。イースト・ヴィレッジなど家賃の安かった土地に多くのアーティストたちが集まり、互いに刺激しあうことで新しいムーブメントが起こった。

 ドライバー監督は、「当時のイースト・ヴィレッジは本当に何もないところでした。その分、アーティストたちは自分たちでなんでも作ってしまおうとやっきになったんだと思います。お金はなくてもなんでもかんでもやってやろうという空気に満ちあふれていました。あそこは私たちにとってプレイグラウンドでしたね」と筆者に語ってくれた。

 治安は最悪だが、家賃が安く刺激的な街。しかし、それが80年代に入ると大きく様変わりする。

「レーガン大統領、資金流入、エイズや麻薬対策が、1981年以降全てを変えてしまいました」

 と、ドライバー監督は語る。ウォール街の復調とともに不動産価格が上昇に転じた80年代、90年代に犯罪率は激減し、ニューヨークは「高くて安全」な街に変化していった。70年代と現在ではニューヨークは全く違う街だとドライバー監督は語る。

「経済や犯罪率など、ニューヨーク社会を巡る状況も大きく変わりましたが、価値観の全く違う街になりましたね。今は金が全てを決める社会です。当時のアーティストが持っていた感覚は失われてしまいました。街を歩いていても、旅行者や高級な乳母車を押している人ばかりになりました。私としては70年代のほうがよりエキサイティングな街だったと思いますが」

 70年代にバスキアなどが活躍したアーティストのメッカだったイースト・ヴィレッジは現在、ジェントリフィケーションの結果、高級住宅地に変貌を遂げた。家賃が高騰し、住居もスタジオの家賃も格段に上がりアーティストが気軽に暮らせる環境ではなくなった。

 こうした問題は、場所を変えてニューヨークの様々な場所で起きている。今のニューヨークは、バスキアの時代のイースト・ヴィレッジのようなアーティストのコミュニティが生まれにくい環境と言えるかもしれない。コミュニティがなければアートシーンも盛り上がりにくい。バスキアの時代ほど、今のニューヨークは新しい、刺激的なアートが生まれる土壌が失われつつあるのかもしれない。(参照

 

今もしバスキアが生きていたら

バスキアは音楽活動していた時期もあった

 

 全く違う街になったニューヨークに、もしまだバスキアが生きていたらどうしているだろうか。本人にも会ったことのあるドライバー監督に聞いてみた。

「彼は新しいアイデアを生み出すことがとにかく好きだったんです。だから、画家にこだわらず、映画を作っているかもしれないし、音楽活動をしているかもしてません。誰にもわからないことですが、彼が今も生きていたら、もしかしたらアートの世界から姿を消しているかもしれません。今の商業主義的なアートの世界は彼にとって苦痛でしょうから」

 

 豊かなカルチャーはどこから生まれるのか。お金のあるところから生まれるのか、それとも70年代のニューヨークのような混沌から生まれるのか。この映画を観ながら、そんなことをずっと考えていた。


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ディズニー「ライオン・キング」の挿入歌、商標登録取り消し求める署名 アフリカから「文化の盗用」の声

The Lion King Official Teaser Trailer

米ディズニーに対し、映画『ライオン・キング』の挿入歌のタイトルになっているスワヒリ語の言葉「ハクナ・マタタ」の商標登録取り消しを求めるインターネット署名に、4万筆以上の署名が集まっている。

BBCによると、今回の署名は、ジンバブエの活動家Shelton Mpalaさんが開始した。

スワヒリ語で「問題なし」または「心配なし」を意味する「ハクナ・マタタ」という言葉は、1994年、ディズニーのアニメーション映画『ライオンキング』が公開されたことで世界的に知られるようになった。

米ディズニーは同年、「ハクナ・マタタ」の商標登録を出願。2003年に認められた

署名活動は、2019年の『ライオン・キング』実写リメイク版公開に際し開始されたとみられ、発案者のMpalaさんは、「ハクナ・マタタという言葉は、タンザニアやケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、モザンビーク、コンゴ民主共和国などスワヒリ語圏の国に住む人々のほとんどが使用している」と主張

「同社が発明しなかったものに商標を付けることは許されるべきではない」としている。

ハリウッドやファッション界で度々話題になる「文化の盗用」問題

ハリウッドやファッション界で頻繁に問題になる「文化の盗用」。この問題について、ウェブメディア「CELESY」は以下のように解説している。

つまり、これらのコミュニティの人々は文化的、宗教的な意味合いがある伝統をその意味を理解せず、その上勝手にトレンドとして使用を煽るような行動は、彼らの文化を盗用していると感じている。

白人は他の文化を一部利用するも、個人の裁量でそれを利用しないも選択の余地があるけど、マイノリティの人々はその文化を背負って未だ人種差別が残る社会で生きていくしか道がない、という不平等な文化搾取からもこの「盗用」という表現が為されている。

【連載企画第一弾】Cultural appropriation(文化の盗用)って何?人気フェス・コーチェラから見えてくる意外な一面|海外セレブ&モデルの情報満載[セレシー]より 2016/06/09)

2016年にも、ディズニーが販売するハロウィンコスチュームに対し、文化が盗用されたとして、ニュージーランドの先住民マオリ族が抗議の声をあげた問題があった。

ファッション界では2017年2月、アメリカの人気ファッション誌VOGUEで「芸者」風スタイルの写真が掲載され、「日本の文化を盗用した」という批判が起きた。モデルのカーリー・クロスがTwitter上で謝罪する事態に追い込まれたが、Twitterの日本語ユーザーからは、「それほどおかしくない」と擁護するツイートもみられた。


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平成を席巻した『Hanako』族のバイブル【創刊号ブログ#5】

独身OLにとって情報源と言えば、この雑誌だった。

 首都圏在住、現在40歳から50歳代の女性で、この雑誌を手にしなかった方はいないのではないか…。もはや解説を必要としないだろう有名女性誌『Hanako』を取り上げる。

 本誌は、20代の未婚女性をターゲットとし首都圏のみで創刊された週刊誌だ。それまで「週刊誌」と言えばオジサンの牙城、もしくは『週刊女性』や『女性自身』のように「パーマ屋に通っている」ような女性を読者層としていた、いまひとつ垢抜けない雑誌カテゴリーに過ぎなかった。しかし本誌は時代に先駆け、若い女性読者を取り込み「ハナコ族」、「ハナコ世代」という言葉まで生み出した。

  1988年6月2日号として創刊。発行人は「当然」木滑良久、編集人は椎根和(しいね・やまと)。

  本稿で「マガジンハウス」を取り上げるのは初めてゆえ、少々解説。木滑という方は、出版界で「超」をいくつつけたら良いかわからないほどの著名人。同社の要職を歴任し、現在最高顧問を務めている(はず)。立教大学文学部卒というから、私にとっても大先輩にあたるが、一度も挨拶の機会には恵まれていない。

  大卒後、平凡出版に入社。マガジンハウスへと社名を変更したのは、1983年のこと。同社はもともと1945年、終戦の年の10月に「凡人社」として創業した。「飛ぶ鳥を落とす勢い」というフレーズは、まさにバブル期の同社を表す。海外取材に出て象を購入、領収書で落とした…という伝説を持つのも同社であることを追記しておく。

  木滑は1965年以降、『週刊平凡』、『平凡パンチ』、『an・an』、『POPEYE』、『BRUTUS』、『Olive』など同社の屋台骨とも言える各誌で編集長を務め、『Hanako』創刊も主導。1988年には代表取締役にも就任している。

  一応、出版業の隅っこにいた者としては原稿上とは言え、呼び捨てにするのも憚れるような雲の上の存在。その頃、雑誌編集者を目指すような輩は、「木滑さんのような編集長になりたい」とさえ思ったもの。『Hanako』はその木滑が現場に介在した最後の雑誌だろう。

  タイトル・ロゴと表紙は、オーストラリアのアーティスト「ケン・ドーン」の手による。タイトル・ロゴは、現在発行されている同誌でも踏襲されている。

  今、創刊号に再度目を通すと、特に目を引くような目新しさは感じない。それまでの週刊誌同様、非常に雑多なネタが、ただし「若い女性向けに」てんこ盛りになっている。表紙を見てわかる通り、謳われている特集は「いい部屋はステイタス すぐ借りられます。厳選27ルーム」とあるだけ。特に華々しい企画でもない。

 表紙を刳ると、表2に資生堂「フェアウィンド」というファンデーションの広告のみ。バブルの絶頂期であったことを振り返ると、広告も極めてコンベンショナルで、かつ広告量も非常に控えめだ。むしろ、現在の同誌のほうが広告は目立つ。

  目次に目を落とすと、多様なラインナップが並んでいる。冒頭より「今週いちばんエキサイティングなニュース」、「事件、風俗etc……好奇心100%のライフ・リポート」、「観て、聴いて、感じて……東京エンタテインメントガイド」、そして「厳選27物件」の特集へと続く。

 ひどくおとなしい。「Hanako族」などと揶揄されるほどの派手さはどこにもない。強いて言えば、99ページから、平野レミ、片岡義男、安西水丸などがグルメエッセイを執筆している程度。巻末には、星座占い、そして、中野翠のエッセイで終わる。

  表3の広告は、武田薬品の口臭予防ABB「ミント」。な、なんて地味なんだ。表4は松下電器産業株式会社「ナショナル」のコードレスヘアフォームという、いわゆるスタイルフォーム用のドライヤーの広告だ。まったく華々しいイメージがない。

 私の記憶のみを頼りに振り返ってみると、同誌が爆発的人気を博したのは創刊から少々経ってからではなかっただろうか。毎号、首都圏近郊の「お洒落な街」を取り上げ、現在テレビ東京でオンエアされている番組「出没! アド街ック天国」のようにそれぞれの街を、ただしお洒落に紹介するフォーマットが出来上がり、人気を博した。

  その恩恵を被ったのは、さして多くのお洒落店舗があったわけでもない「代官山」など。都内の街は、同誌の特集に取り上げられるたびに賑わった…というからくりではなかったか。

  この確証を得ようと、自身の書庫を漁って来たが、どうもこの頃のHanakoが見当たらない。編集者として丁稚奉公を始めた頃、また新入社員として出版社に潜り込んだ時期なので、相当数の雑誌を購入したはずなのだが、渡米に際し処分してしまったのか、ぱっと見渡しただけでは探し当てることができなかった。無念。

 もちろん、この創刊号の細部に目を通して行くと、そこはかとなくバブルの香りが漂って来る。中綴じのセンター広告は、ヤマハレクリェーション株式会社が展開するヤマハリゾート「はいむるぶし」の広告。旅行主催は日本交通公社、現在のJTBが請け負い、リゾート感をアピールしている。そしてBAR評論家として私がとてもお世話になっているサントリー株式会社は当時「サントリーカード」というクレジットカードを発行していたことが、中の広告から判明。カード申し込み用紙でページを構成している。

 高倉健の連載も盛り込まれているが、たった1ページが割かれているだけ。絶頂期なら5ページぐらいの特集になりそうなネタだ。また、レストランガイドのページでは、なんと各店舗から広告が入っており、現在のグルメサイトの登場を予見させる作りも見せている。

  当時、東京国立近代美術館で行われていたルネ・マグリット展の広告を見つける。突如、後に某局のアナウンサーとなる女史とこのマグリット展を訪れデートした記憶が蘇る。恐ろしい。

 雑誌は、こうして時代時代の瞬間を切り取り、発行されればアップデートもされないゆえ、本当に時代性を反映するメディアなのだなと、感心する。

  1990年には『Hanako WEST』という関西版まで創刊。その人気を不動のものとするが、やはりネットでの情報収集が主流となった2000年以降、部数を減らし、本誌は2006年以降は「隔週刊誌」へと変貌。「WEST」は2009年を最後に休刊した。

 さらに2018年9月27日号「創刊30周年記念号」1165号を最後に、キャッチを「東京を、おいしく生きる女子たちへ。」と換え月刊誌に生まれ変わった。スマホのアプリ「dマガジン」などでまとめて雑誌が読めるようになった現在、隆盛を誇った本誌も発行部数8万部を割り込み、果たしていつまで生き残るのか、興味深い。


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誰かを完全に理解するなんて無理。仮面をかぶって生きてもOKじゃん。平野啓一郎さんと話したらラクになった。

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「結婚なんて、できるわけない」と嘆く友人がいる。

聞けば、「結婚してもしなくてもいい時代にわざわざ結婚するとして、心からわかり合えるたった1人を選ぶ自信も、確信もない」という。

既婚者の自分からしてみると「そんなに高尚なものじゃないよ」という感じもするものの、私は友人の不安を解消する言葉をうまく持ち合わせていなかった。

ここに、ヒントとなる言葉を与えてくれる小説家がいる。芥川賞作家の平野啓一郎さんだ。

最新作『ある男』(文藝春秋)では、大切な人のことを、本当はわかってないかもしれないという「漠然とした不安」をミステリー仕立ての物語で描いた。

ただでさえ、スマホやSNSから入ってくる情報が多すぎてガチャガチャしているこんな時代に、大切な人と健全な関係を築くにはどうしたらいいのか。対人関係のモヤモヤとどう向き合えばいいのか。小説『ある男』から浮かび上がるヒントとはーー

ハフポストとdTVチャンネルのネット番組「ハフトーク」に出演した小説家の平野啓一郎さん

インターネット時代の特有の不安感

「愛したはずの夫は全くの別人だった」——。小説『ある男』のキャッチコピーだ。

宮崎県に住む里枝は、不慮の事故で夫をなくしてしまう。一瞬で崩れてしまった幸せな生活。しかし、悲しみに暮れる間もなく、ふとしたことがきっかけで、亡くなった夫が、実は名前も過去も偽って生きてきたことを知る。里枝は弁護士の城戸を頼りに夫の秘密を解き明かそうとする。

1920年代に発表された江戸川乱歩のミステリ小説『パノラマ島奇談』など、夫だと思っていた人が実は「別人」だったという設定は昔からある。しかし『ある男』には、ネット全盛時代の今だからこそ、差し迫ってくるリアリティがあるように感じる。

平野さんは、ネットの登場が人の生活やものの感じ方にもたらした影響は、本当に「大きい」と話す。

《SNSが普及したことで、人が自分をアピールする手段は、かつてのような服装や車、職業などといったものから、SNSでの発信そのものに変わってきている部分があります。

タイムラインを遡れば、その人がこれまでどういう風に生きてきたかも知ることができる。人の過去の蓄積が可視化されていることが前提になっているのが今です。

SNSを見ればその人がわかるーー。他人を「ある程度わかっている」という状態が当然になるから、「相手のことがわからない」ということに対して、かつて以上に異様なことのように感じてしまう部分はあるんだと思います。

小説はどうしても時代の空気をまとう部分があるから、今のネット時代特有の不安感みたいなものは、おのずと登場人物の言動にも反映されていると思います。》

『ある男』(文藝春秋)

誰といるか次第で、自分は変わる。それが当たり前。

ネット時代にはびこる独特のモヤモヤや行き詰まり。冒頭の友人の言葉も、こうしたところから生まれているのかもしれない。

ここに”補助線”を引いてくれるのが、平野さんが唱えてきた「分人主義」という考え方だ。

「分人」というのは、「個人」をさらに細分化した人間の「最小単位」を表す言葉。「個人」という呼び名で括られる自分の中にも、状況によってその都度キャラを変えながら生きる「多種多様な自分」がいるという考え方だ。

平野さんはいう。

《自分の中に複数の人格があるという状態は、長い間、”裏表がある”とか”二重人格”などといった具合に、ネガティブに捉えられてきました。

でも、みんな薄々気づいていることですが、人間というのは、対人関係ごとに、その関係性によって色んな自分になります。それを肯定的にネーミングしたのが『分人主義』です。

出発点として、コミュニケーションする相手ごとに違う自分なのはしょうがないこと。それなのに、どれが本当の自分でどれが偽りの自分なのか? ということを考え出すと、混乱するばかりです。

全部が本当の自分で、その中には、生きていて心地いい分人もあれば、そうじゃないものもある。

そんな風に、自分や他人を見ていくべきなんじゃないか、と思うんです。》

自分の中に「複数の人格」がいると認めることは、「絶対的な一つの自分」を求めてしまうマインドからの解放でもある。

エッセイ『考える葦』(キノブックス)の中で平野さんは、分人主義に基づいて、人間の恋愛感情をこんな風に整理している。

<人が、誰かを好きになる、というのは、実は「その人といる時の自分(=分人)が好き」ということである。他の誰といるよりも、その人といると笑顔になれる。快活になる。生きていることが 楽しい。人は決して、ナルシスティックに自分一人で自分を好きになることは出来ない。しかし、 この人といる時の自分は好き、と言うことは出来る。だからこそ、その相手を大事にする。いつまでも一緒にいたいと思う。

 I love you. の翻訳は、蓋し「あなたといる時の自分が好き。」ではないだろうか。>

こんな風に考えると、誰かに100%自分を理解してもらおうとしたり、100%相手を理解しなければならないと思う必要はないのではないか。

「愛したはずの夫は全くの別人だった」。

冒頭で紹介した『ある男』のキャッチコピーだ。夫が別人だと知った里枝や、彼女を助ける弁護士の城戸など、この作品には、自分自身や、愛する人の「本当のすがた」を探し求め、もがく人たちが出てくる。

登場人物に対して、彼らの生みの親でもある平野さんは「それでいい。全部わからなくても仕方ないよ」と優しく語りかけているようにも思える。

その眼差しを通して読者である私たちは、どこか気持ちがラクになっていくのを感じるのだ。

たとえば自分の愛する人が、想像していた人とは違う「別人」である瞬間があったとしても、それはそれで受け入れられるのではないか。家庭では、オフィスと違う仮面をかぶっていたとしても、ある意味自分らしく生きていることになるのではないか。冒頭に紹介した、結婚に躊躇している友人も、そこまで難しく考えなくて良いのではないか——。

小説を読み終わり、平野さんの話を直接聞いていた1時間。その間の「分人」としての私は、少なくともそんな思いを抱いて、気持ちを落ち着かせていた。


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「幸全」と書いて何と読む? 子どもたちがつくった新しい漢字が楽しすぎる

今年の漢字が発表された12月13日、書道家の武田双雲氏がブログを更新し、小学生たちがつくったという新しい漢字を紹介した。趣向を凝らした漢字が紹介されているのだが、皆さん読めますか?

「幸」に「全」と書いて何と読む?


答え








「へいわ」。


「友」に「力」と書いて何と読む?


答え








「きずな」。


「木」に「木木」「木木木」「木木木木」と書いて何と読む?


答え








「ジャングル」。


「光」に「石」と書いて何と読む?


答え








「ダイヤ」。


なお、武田氏はこれまでにも、子どもたちのつくった新しい漢字を紹介している。

「赤」に「札」と書いて何と読む?


答え








「ずるい」。
この字は「ずるい人にはレッドカード!」という発想から生まれたという。

みなさんも新しい漢字を創作してみて!


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