韓国

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20歳を過ぎるまで、存在しない国の人だった。そんなぼくが考える、いつでも逃げられる自由

ぼくは二十歳を過ぎるまで、存在しない国の人だった。そのせいか、どの国に対しても、「ここが自分の国だ」という実感を持ったことがない。むしろそういった実感を持つことから全力で逃げてきた。

ぼくは朝鮮人の両親のもと、日本で生まれた。朝鮮人はこの世に存在するけれど、朝鮮という国は今のところ存在しない。あるのは北朝鮮か韓国だ。朝鮮籍の人とは、朝鮮が北と南の二つに別れた時に韓国籍を選択しなかった人のことである。

ぼくの祖父母は当時韓国籍を選ばなかった。ぼくの両親も朝鮮籍のままでいたので、ぼくも自然にそれを引き継いだ。韓国を選ばないということは北朝鮮を支持する人なのだろう、と理解する人もいるけれど、ぼく自身は生まれたら朝鮮籍だったので、そう思われるとちょっと戸惑ってしまう。

 実家に置いてある、朝鮮舞踊家の絵

朝鮮籍を持つことを、「統一するであろう朝鮮」という想像上の国家を支持することとして捉える人も中にはいる。ぼくはこっちのアイディアの方が好きだ。現在はないが、過去に存在し、そしてもしかすると未来にまたやってくるかもしれない国を支持するなんて、すごくポエティックだと思う。

そんな概念として気に入っていた朝鮮籍を、自由に海外に行きたいという理由からぼくはあっさりと捨てた。朝鮮籍だと海外旅行をするときの手続きがいろいろと面倒で、フランスへ行きたかったぼくは、韓国籍を取得した。だから、朝鮮籍を持ち続けている友達と会う時はなんだか気まずい。欲望に身をまかせた裏切り者、とでも思われている気がして、申し訳なくなる。もちろん、友達はそんなこと思ってないだろうけれど。しかしその数年後、ぼくはさらに韓国も裏切ることになる。

渡仏して12年たったころ、つまり昨年、ぼくはフランス人になった。つまり、日本語では帰化、フランス語ではナチュラリザシオンと呼ばれる手続きを行ったのだ。ナチュラルが「自然」と訳されるので、ナチュラリザシオンは「自然化」ということになる(ぼくは今まで「不自然」なものとして生きてきたのだろうか? という疑問はここでは置いておく)。

フランス国籍を取得した理由は、これまた実用的なものだ。まず、滞在許可証を受け取る時、悪名高いボビニーの警察署で毎回半日以上待たされるのを面倒に思ったのがきっかけである。外で列に並ぶ時、夏はまだいいけれど、冬はすごく寒いのだ。寒い中、長時間じっと待っているのはつらい。代理で待ってくれる人を雇う人もいるくらいだ。あとはまあ、ここで仕事もしているし、ずっと住むなら何かと便利だろうし……と実用的な理由をあげればキリがない。

道で発見したカフェの看板、TOUT VA BIEN(すべてはうまくいく)

それとは別に、韓国に住んだこともないのに韓国人と名乗る違和感に耐えきれなかった、というのもある。ぼくの家族は日本に住んでいるし、ぼくの母語は日本語だ。フランスで韓国出身の友達と話す時、共通言語はフランス語となる。「ぼく韓国人なのに韓国語話せなくてごめん」となぜだか情けないきもちになってしまう。

ちなみに、それとは異なるタイプのうしろめたさを、日本の友達に対しても感じることがある。ぼくは日本人みたいな日本語で話すものだから、こっちから言わないかぎり、向こうはぼくが日本人であると勘違いしている。騙しているつもりはないのだが、なんだか落ち着かない。そして、カミングアウト(?)した後、日本語うまいね! とフォローされるたびに感じるかすかな虚しさ。

自分にとっていちばん実用的でドライに接することのできる国籍を選ぶことで、ぼくは、こうした日本、朝鮮、韓国をめぐる煩わしさら逃れたかったのかもしれない。

友人の写真作品のためにパフォーマンス

こうしてぼくは朝鮮という概念を裏切り、韓国からも逃げ、日本に帰化することもせず、フランス人となった。しかし、不思議なことに、フランス人になることで、朝鮮、韓国、日本という三つの国のバランスを、心の中でうまくとれるようになった気がする。これで、ぼくが心からフランス人になれれば、すべてはうまくいくはずなのだ。

フランス国籍取得で変わることといえば、投票。前回のマクロンvsルペンの選挙には間に合わなかったが、次回からは投票ができる。人生で初めての投票だ。まだ大統領候補者も決まっていないのに、誰に投票しようかな、とぼくは今からワクワクしている。このワクワク感はフランス人っぽい気分を盛り上げるのにとても効果的だ。どっちにしようかな、と考えているときは、自分がすごく愛国民になったように思える。

実際、前回の選挙では、投票について語る人たちは皆イキイキとしていて、ぼくも、マクロンかルペンか? と盛り上がりたい気持ちでいっぱいだった。これはサッカーのワールドカップと同じで、フランスが勝った時、フランス人のサポーターはよっぽど嬉しかっただろうな、と想像してぼくは羨ましくなる。ぼくなんか、友達に「で? きみはフランス応援してるの? それともクロアチア?」と聞かれるくらい、まだフランス人としての態度が板についていないのだ。

友達が作成したワールドカップ・トーナメント表

そう、ぼくに決定的に欠けているものは、国に対するまじめさ、つまり国民としての意識なのだろう。なぜならぼくは、あてがわれた概念に対して責任を持つなんて馬鹿げているとつねづね思ってきたからだ。そして、その責任を押し付けるものからいつも逃れようとしている。しかし、フランス人となることを選んだ今、ぼくはそこからもう逃れられないのかもしれない。

フランス人という形式に従ううちに、フランス人でありたいとする欲望はぼくにつきまとうのだろうし、そうこうしているうちに、ぼくは本当のフランス人にすっかり似た何かになってしまうのだろう。例えそれが実用性からスタートしたものだとしても。それはそれでいいことだ。やっと一つの国を選び、「この国の人」になれたわけだし、ぼくだってこの国を、心の底から愛してみたい。

でも、とぼくは思う。

この、いつでも逃げられる自由というものをぼくは大事にしなければならない。

それはつまり、形式とそこから生まれる欲望から、つねに逃れられるよう心の準備をしておくということだ。この自由を失くさないために、いつもどこかで、愛するものを裏切らなければならないとしても。ぼくにとって自由とは逃げ続けることで、この一種の強迫観念のような逃走への思いを、どうしても自分から切り離すことはできないのだ。


SHIORI CLARK

様々なルーツやバックグラウンドの交差点に立つ人たちは、自分を取り巻く地域の風景や社会のありようを、どう感じているのでしょうか。当事者本人が綴った思いを、紹介していきます。

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