フランス

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「カリオストロの城」フランスで初上映。40年間公開されなかったのは、ルパン三世の著作権トラブルが原因?

宮崎駿監督が初めて手がけた長編アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」が公開から40年後の2019年1月、フランスで初めて上映された

2019年1月にフランス国内で公開された「カリオストロの城」のポスター

■フランス政府が紹介

フランス政府留学局の日本支局は2月7日、フランスで「カリオストロの城」が上映されたことをtwitterで紹介し、「フランス留学中の方はぜひフランス語で様々な名シーンを見てみてください」と呼びかけた。

日本で放映されてから40年、フランスでついに『ルパン三世 カリオストロの城』の上映が実現しました。
フランス留学中の方はぜひフランス語で様々な名シーンを見てみてください。https://t.co/pJJF46V2DIpic.twitter.com/aEnpgEuHEj

— フランス政府留学局-日本支局 (@CampusFrance_jp) 2019年2月7日

■上映まで40年…背景に著作権問題か

「ルパン三世 カリオストロの城」は1979年に日本で公開されたアニメ映画。原作はモンキー・パンチさんで、宮崎駿さんが監督を務めた。

ヨーロッパにある架空の国「カリオストロ公国」を舞台に、フランスの小説家モーリス・ルブランの作品に登場する怪盗、アルセーヌ・ルパンの孫という設定の「ルパン三世」が活躍する物語。

日本では度々テレビで放映されるなどし、根強い人気を保ってきた。

フランス政府留学局が紹介している現地のニュースサイト「Le Point」によると、この作品がフランスの映画館で上映されたのは初めてだという。

上映されるまで40年間かかった理由について、 ルパン三世という名前が、「アルセーヌ・ルパン」シリーズの著作権に抵触するとして、問題視されていたと同サイトは紹介している。

なお、作者モーリス・ルブランの死後70年が経過した2012年から「アルセーヌ・ルパン」シリーズの著作権が消滅。ルパンの名称に関わる問題がクリアになったことで、正式に映画公開できるようになったようだ。

そのため、以前から作品のビデオ版は出回っていたものの、主人公はルパンではなく「エドガー(Edgar)」や「ヴィドック(Vidoqc)」などと名前が変えられていたという。

フランスの大手紙「ル・モンド」はこの映画について「一種の理想的なエンターテイメントを実現している」と称賛している。

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「あなたが結婚して、社会は変わった?」同性婚したフランスの夫夫(ふうふ)からの逆質問

フランスで同性婚をしたジャン=クリストフ・ドルボーさん(左)と、ガエル・ロジェさん

日本で2月14日、「同性婚を認めないのは違憲」だとして、全国の同性カップル13組が、国を相手取り、損害賠償を求めて集団提訴する

これまでに世界24カ国で認められてきた同性婚。国レベルでの同性カップルの法的保護の制度が何もないのは、G7では日本だけだ。

筆者が住むフランスでは、2013年の民事法改正で、同性間の婚姻が合法とされた。異性間の夫婦と同一法のもと、市民生活、税制、養子縁組、遺産相続など結婚にまつわるあらゆる点で、同じ権利と義務が認められている。

合法化以降、同性間の結婚は年間結婚総数の約3〜4%で推移。2017年は22万1000組が結婚、そのうち同性カップルは7000組だった。

フランスで、結婚した同性カップルはどんな暮らしをしているのだろう。そして同性婚が合法化されたことで、社会はどのように変わったのだろうか。結婚4年目のご夫夫(ふうふ)に話を聞いた。

同性カップルからの最初の質問

公立小学校の学童保育指導員をしているガエル・ロジェさん

「あなたが結婚したことで、社会は何か変わりましたか?」

思いもよらない逆質問から、インタビューは始まった。そう私に尋ねたのはガエル・ロジェさん(44)、公立小学校の学童保育指導員を職としている。看護士である夫のジャン=クリストフ・ドルボーさん(56)と、パリ郊外の分譲マンション暮らし。22年来のカップルだが、結婚したのは3年前だ。

ミッドセンチュリー家具が趣味良く配された室内は、二人でリフォームしたという。優しい冬の光が差し込む居間で、想定外の問いかけに少々面食らいつつ、私は答えた。

「私の結婚で社会は……変わってないと思いますね。全く」

ロジェさんは笑みを深くして、会話を続ける。

「そうでしょう。相手が異性だろうが同性だろうが、結婚は個人の問題ですから。まして同性婚は全体の3〜4%ほどです。する人が増えたところで、社会に悪影響が出ることはない。変わるのは当事者の生活だけなんです。それもいい方にね」

私自身は2000年からフランスに住み、フランス人男性と異性婚をしている。6年前に同性婚が合法化されて以降、その法改正が私の生活に及ぼした影響は、たしかに心当たりがない。私の知らないどこかで、結婚できるカップルが増えた、それだけだ。ロジェさんの言うことはそのまま、生活者としての実感だった。

では、当事者にとっては何が変わるのか。一番の違いは「安定感」だと、ロジェさんとドルボーさんは口を揃える。

「同性婚が合法化される前は、僕たちは”永遠の独身者”でした。どれだけ長く一緒に暮らして、実の家族より信頼しているパートナーがいても、”独身者”でいるしかない。実利的にも精神的にも、それは大きな負担だったと、振り返ってみて感じます」

結婚とは、パートナーを守るもの。

看護士のジャン=クリストフ・ドルボーさん

フランスでの結婚は、合意した成人同士が「家族」となり、互いを保証し守り合うための制度だ。赤の他人を対等な家族として結ぶ制度は、他には無い。

事実婚として知られるパートナーシップ制度PACS(連帯市民協約)は、税制や家族手当の面で、結婚とほぼ同じ扱いを受けられる制度だが、それは日常生活の便宜を測るもの。各種契約や遺産、養子縁組など、長期スパンで共同生活の基盤を築き、維持するための便宜は含まれない。

「結婚」には、婚姻後の生活を長期的に安定させ、円滑にするため、様々な権利と義務がついてくる。納税や社会保障など財政の単位が一つとなり、不動産の契約や銀行のローン契約も、二人で組めるようになる。

家族として責任をシェアするので、配偶者には互いの扶養の義務と、生計維持のための支出負担の義務が生じる。死別後も二人で築いた環境で生き続けられるよう、遺族年金や遺産相続の制度が整えられている。

そういった「配偶者の権利と義務」は、結婚さえすれば、自動的に与えられる。しかし同性カップルには望むべくも無いものだった。家族になるための結婚が、認められていなかったからだ。人生設計をともにする成人同士なのに、ただ相手が同性であるというだけで。

生活実態は既婚者と同じでありながら、公的にはシングルと扱われる、そんな不平等な状況で、生き続けてきた。

合法化された同性婚、背中を押したのは母だった。

「自分の生活実態が、公的に認められない。不法生活者のような感覚が、いつもありました。真面目に労働して納税して、違法なことはしていないのにね」

同性婚が合法化されるまでの日々を、ロジェさんはそう振り返る。

「不思議なことに、同性婚が合法化された後も、僕たち自身は『しよう』と思えなかった。結婚できない状況に、慣れすぎていたんですね」

彼らの背中を押したのは、ロジェさんの母親。異性婚の結婚生活を長年続け、その意義を十分に知っている人だった。

「このマンションを増築するとき、母が言ったんです。結婚すれば一緒にローンを組めて、返済もより楽になる。けれど大事なのはそれだけじゃない。結婚はあなたと彼を、お互いが死んだ後にも守ってくれるものだから、って」

自分たちも、互いを守り合う「家族」になっていい。それは予想以上に大きな、人生ビジョンの転換だった。ドルボーさんは振り返る。

「結婚式で『ウィ』と言ったときの感情は、なんとも言い表せないものでした。市役所という公的な場で初めて、『この人は僕の夫、家族です』と宣言できたんですから」

それは彼らにとって、初めて自分たちを、全面的に肯定できた瞬間でもあった。お揃いの指輪を身につけたのも、結婚指輪が初めてだった。

フランスでも、同性愛は「隠すもの」だった。

ロジェさんとドルボーさんは今、自分たちの関係をオープンにして暮らしている。

別姓を選んだが(フランスは結婚後の別姓が認められている)、行政上も職場でも、享受する権利や制度は異性既婚者と同じだ。年老いた両親やきょうだい達も、彼らの結婚を受け入れている。

だがそれまでの道のりは、決して安らかなものではなかった。

「僕らの世代では、隠すのが当たり前。1981年にミッテラン大統領が刑法を改正するまで、同性愛は精神病の扱いだったんです」

そう話すドルボーさんは1962年生まれ。12〜13歳頃には自分の性的指向をはっきり自覚していたが、20歳くらいまでは女性との交際も試みた。

「自分が自分である、と認められるようになるまでは、辛かったですね」

夫君よりひとまわり年下のロジェさんも、「ずっと自分を否定していた」と言う。

初恋は6歳の時、仲良しの男の子に恋情の芽生えた瞬間を、今も覚えている。が、それは当時は「病気」とされ、認めてはいけないものだった。

女性と交際し、バイセクシャルを自認したときもあった。その理由をロジェさんは「悪い経験の定番パッケージ」と振り返る。

「フランス語では、力で劣る男性を『軟弱者』と罵倒するとき、『ペデ(おかま)』『アンキュレ(掘られ野郎)』と言うんです。同性愛者であることがそのまま、罵倒の言葉になっている」

「ヘテロの男性は、日常会話で本当に躊躇なく、この語を使います。スポーツ観戦なんかでもね。その度に、何度傷ついたか分かりません。しかも同性愛者であると知れると、罵倒の意味を込めて、同じ言葉を投げつけられる。声高には言わないけれど、ゲイであれば誰しも、何度もする経験なんです」

そんな定番パッケージを経るうち、「自分はゲイではない」と否認するか、「自分は罵倒されるような劣った人間だ」と受け止めてしまうようになる。いずれにせよ、自己否定をせざるを得なくなるのだ、という。

固定イメージを壊すために、カミングアウトする必要がある。

その自己否定からロジェさんが脱け出せたのは、20歳の時。パリで服飾系の専門学校に通い、周囲に同性愛をオープンにしている人が増えた。その中で少しずつ、自分の性的指向を認められるようになった。

「ちょうど時代も良かったんですね。90年代は、ゲイカルチャーがナイトライフの先端にあった頃。都会では、同性愛者の感性がクールであると認められていました」

その時代の変化に貢献したのは、自身の性的指向をカミングアウトした著名人たちだった。

「軟弱な男性」の代名詞であったゲイに、スポーツ選手や政治家がいる。続いて、「マル・ベゼ(モテない欲求不満女)」と揶揄されたレズビアンにも、魅力的な女優やアーティストたちが名を連ねた。

1998年には、当時の最大野党・社会党の有力政治家ベルトラン・ドラノエが、全国放送のテレビ番組でカミングアウトした。彼はのちに、同性愛者を公言して初めてパリの市長選挙に当選している(2001〜2014年パリ市長)。

「カミングアウトは、同性愛者の偏見イメージを壊すために必要なんです。軟弱でもない、劣ってもいない、精神病者でもない。社会に生きる真っ当な人間なのだと」と、ロジェさんは語る。

カミングアウトの隆盛期には、バッシングも多かった。だが、そうして同性愛者の顔が見えるようになったことは、同性婚合法化に向けての重要なステップだったと二人は考えている。

どこにでもいる善良な一市民として、社会が同性愛者を認識して行くために。

同性婚合法化までの、法的なステップ

90年代、カミングアウトやプライド・パレードなど啓発運動を経て、フランス社会は徐々に、同性愛者の存在を公に認めるようになっていった。

1999年には、同性同士の世帯構成を公的に認めるパートナーシップ制度PACSが成立する。実はこの法案は「同性婚を認めないため」の妥協案だったのだが、蓋を開けてみれば、利用者は異性カップルの方が圧倒的に多かった。

家族を作るのに、性別は関係ない。PACSというステップを踏んだこと、その制度を多くの異性カップルが享受したことで、同性婚合法化への地盤が固まっていったのだ。

2012年、大統領候補フランソワ・オランドは、同性婚合法化を選挙戦の公約に掲げる。当選後、すぐこの案件に取り掛かり、「自由を分かち合い拡大するこの法改正案を、勇気とともに提出すること。それは政治的・倫理的な責任である」と国会に提議した。が、議論は与党の予想以上に大紛糾した。

審議は合計170時間にも及び、その間、カトリック原理主義者など100万人を超える反対デモも巻き起こった。ロジェさんたちは支援デモに参加し、反対運動に胸を痛めながら、固唾を飲んで成立を願ったという。

法改正案は331対225で可決され、その約1カ月後には、フランス初の同性結婚式が挙げられた。以来2018年1月までに、約4万組の同性カップルの家族が誕生している。

少数だけれど、確かに社会を構成する人々。

フランスでは、既婚カップルには性別を問わず、同等の権利が与えられていると書いた。実際にロジェさんたちは共同でマンションを買い、そのためのローンを一緒に組み、一世帯として納税している。クレジットカードや携帯電話なども家族契約だ。

同性婚が法制化されて、フランスの社会は何か変わったのか。

「同性愛者は全人口の約8%ほどと言われています。(国内の)結婚やパートナーシップ契約の実績を見ても、その数字はほぼ固定です(2016年、同性婚は結婚全体の3.09%、同性PACSは3.8%)。僕たちは社会全体に悪影響を及ぼせるほど、数が多くないんですよ。その点は心配しないで欲しいですね!」

冗談めかしてロジェさんは言う。

同性婚が法制化され、実績が出たことで、反対派も徐々に矛先を収めている。2016年の世論調査では、62%が「同性婚は合法のままであるべき」と回答。現在、同性愛者の権利の議論は、養子縁組のあり方に移っている。

しかし、全体から見た割合は約8%と少なくとも、同性愛者は確かに、社会を構成する人々だ。フランス政府は同性婚の合法化によって、その8%の人々に、人生の安定と肯定感をもたらした。

正しく勤労・納税し、一市民として穏やかに暮らすロジェさんとドルボーさんの姿は、その意義を十分に体現しているように見える。それまでの道のりを振り返るインタビューを、ロジェさんはこう締めくくった。

「当事者にもそうでない人にも、同性婚は話題にするのが難しい、デリケートなお題です。でも状況を変えるには、話をしていくしかない。不器用なやりとりでも、それを繰り返すことで理解が深まるなら、無関心よりずっといいんです。僕らはみんな、同じ船に乗っているんですから」

社会を大きく変えるわけではない、でも確かに、誰かの人生をよりよくできる。それが同性婚の合法化だ。それを日本で可能にするにはどうすればいいのか。「同じ船に乗っている」者同士、一人でも多くの当事者・非当事者に、考えてもらえたらと願う。

(取材・文:髙崎順子 写真:宮本武 編集:笹川かおり)

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香港に届いたポテトチップス用ジャガイモから手りゅう弾 カルビー広報「影響なし」

香港にあるカルビー子会社の工場で、フランスから輸入したジャガイモの中から手りゅう弾が発見された。手りゅう弾は第1次世界大戦時代のもので、警察が爆破処理したという。2月3日、AFP通信時事ドットコムが報じた。

AFP通信によると、手りゅう弾は香港にあるカルビーの子会社「カルビーフォーシーズ」の工場で見つかったという。大きさは、直径8センチ・重さ約1キロ。
2日、香港のポテトチップスの工場で、フランス産のジャガイモに紛れているのが見つかった第1次世界大戦時代の手りゅう弾(香港警察が3日公開)(中国・香港)

香港警察の発表によると、今回の手りゅう弾は第1次世界大戦中に使われたものだという。手りゅう弾は、香港警察によって現場で処理された。警察が発表したビデオにはその処理の様子が写っている。

■日本のカルビー広報「今回の件での影響はなし」

一方、親会社であるカルビーの広報に確認すると、日本国内で流通しているカルビー製造のポテトチップスの原料となるジャガイモは、基本的に国産かアメリカ産のもので、今回の件での影響はないとしている。




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炎上する車を吊した重機が、料金所に突っ込む。デモが暴徒化するフランスで衝撃的な映像

燃料税引き上げに抗議するデモがフランス各地で暴徒化する中で、衝撃的な映像が撮影された。ハフポスト・フランス版などが報じた。

地元メディアの「actu.fr」によると、12月2日土曜日の夜、フランス南部のナルボンヌで撮影されたもので、炎上する乗用車を持ち上げたまま重機が走行し、高速道路の料金所に突入する模様が映し出されている。

KazaaInfosRadarsというFacebookアカウントが同日、「ナルボンヌで撮影されたシュールなシーン」というタイトルで動画を投稿した。日本時間3日までに100万回以上も再生されている。

この動画は日本でも広く共有され「何だこの世紀末」「北斗の拳みたい」「マッドマックスになってる」などと驚く声が続出している。

ニューヨークタイムズは警察情報として、12月1日の大規模デモの結果、フランス全土で260人以上が負傷、約412人が拘束されたと報じている。このほか、南部アルルでは、抗議行動の道路封鎖に重い荷物を積んだ運搬車が衝突し、運転手1人が死亡したとロイター通信が報じている。


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美しいパリが炎に包まれる…。 デモ隊が暴徒化、警察と衝突(写真)

パリ・シャンゼリゼ通りでトラックを燃やすデモ隊

フランスで11月24日、政府による燃料税の増税に反対するデモが各地で行われ、パリのシャンゼリゼ通りでは暴徒化したデモ隊と警察が激しく衝突する事態に発展した。

デモは、燃料価格の高騰に抗議する「黄色いベスト運動」の一環として始まった。参加者は、道路工事で作業する際などに使用する黄色い安全ベストを着用しており、17日にはフランス全土で28万人以上が道路を遮断する大規模なデモが起きていた

クリストフ・カスタネール内相によると、24日のデモにはフランス国内で約2万3000人、シャンゼリゼ通りでは約5000人が参加。治安部隊に物を投げつけたり、車に火をつけるなどデモ隊の一部が暴徒化し、治安部隊は催涙ガスなどを使って対抗した。フランス全土で130人、パリ市内では42人が逮捕されたという。

Protest… chaos… tear gas… water cannons… chair… Wait, What? https://t.co/Pgb8ZvdbjE#ChampsElysées#giletsjaunes#24novembre2018pic.twitter.com/ax4slDVmV6

— RT (@RT_com) 2018年11月24日

シャンゼリゼ通りに集うデモ隊

エトワール凱旋門の前で燃え上がるバリケード

シャンゼリゼ通りに集まった治安部隊

マクロン大統領は怒りあらわ

CNNによると、「黄色いベスト運動」は燃料価格の上昇への抗議として始まった。しかし、最近はマクロン政権に抗議するデモに発展。今回のデモ隊には、「極右関係者が紛れ込んでいた」とする見解もあるという。

暴動を受け、マクロン大統領はTwitterで「警察を攻撃した者や、市民や記者を罵った者、公職者を威圧しようとした者たちは、恥を知るべきだ」と怒りをあらわにした。

Merci à nos forces de l’ordre pour leur courage et leur professionnalisme. Honte à ceux qui les ont agressées. Honte à ceux qui ont violenté d’autres citoyens et des journalistes. Honte à ceux qui ont tenté d’intimider des élus. Pas de place pour ces violences dans la République.

— Emmanuel Macron (@EmmanuelMacron) 2018年11月24日

デモ参加者は黄色い安全ベストを着用している。

シャンゼリゼ通りを歩く警官。


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暮らした国、7カ国。どこでも「日本人」代表だった自分が、帰国後に直面したギャップとは

「君のネクタイいいね」。就活の時に面接官に言われたこの言葉は素直に嬉しかった。リクルート・スーツという制服を設けることで身だしなみではなく、中身で判断・採用するということだろうか。それにしても服装も個人を表す大事な要素だ。せめてもと思い、ネクタイは唯一の個性表現として拘っていただけに、面接官の真意は別として嬉しかった。

海外7ヵ国で過ごし、日本での教育は、大学に入るまでは小学校2年間のみと、日本という国は身近でありながら遠い国であった。というのも中東・欧州・北米・南米の地域の現地校やアメリカンスクールへ通ったが、そこにいる「日本人」といえば、私くらいであった。

このため、私の行動は「日本人」のものと周囲に思われ、私もそう意識するようになっていた。外交官だった父の影響や、毎週末通っていた補習校の影響もあったのかもしれない。その「日本人」とはなんであろうか。帰国してから8年程経った今、自分の経験を振り返り考えていきたい。


陽気なイタリア・ローマから、小学2年で、フランス南部のマルセイユに引っ越し、過酷な生活がスタートした。

同じラテン文化であっても、当時のマルセイユでは、日本はあまり馴染みのない国だった。ちょうど同世代の間ではポケモンが流行りだした頃だったが、それが日本発祥ということは知られていなかった。

現地校に通っていたが、黄色人種であること、「中国人、中国人」とつり目のまねをされ、言葉を話せない自分をからかわれたのが悔しかった。フランスで小学校を過ごしたが、体罰こそなかったが、小学校では先生のことをMaitre(ご主人さま)、Maitresse(女主人さま)と呼ばせていた。

大学卒業前に訪れたマルセイユ

フランス人の特徴は、自国の文化に誇りをもち、自分の主張を貫く人々である。一方で、特にアジア人を含めた有色人種に対する優位性(最近の変わりようには驚いているが)を感じているようにも思えた。

フランス語以外はわかってもわからないふりをされた。ちなみに、外国人が話す「フランス語」はフランス語ではない。後にフランス語圏のカナダのケベック州に住んでいたとき、フランス人は通訳をつけて観光していた。ケベックはフランス語圏だが、かなり特徴のある「フランス語」だ。

フランスの現地校は、ディクテーションやクラス全員の前で暗記した詩(poesie)を発表させるなど、教育熱心ではあった。外国人であろうと、国民教育(同化教育?)は手加減しなかった。悔しさと厳しい学校環境のおかげで、3年の南仏生活で習得したマルセイユ訛りのフランス語は、今でも役にたっている。

1年半暮らしたローマでは、日本人学校に通っていたので、負けたくない、強い「日本人」になりたいといった意識はフランスでの経験から芽生えたのだと思う。

フランス人コミュニティに馴染み、仲間ができ、3年が経過して「日本人」としての立場を確立した頃、父親が日本に転勤になった。帰国して国立の附属小学校の帰国子女学級に転入した。

5年生だったが、周りは中学受験の真っ只中だった。マルセイユでは日本語補習校に通っており、読み書きはできたが、受験とは無縁であった。帰国学級に入ったものの、その中でも新鮮な帰国子女だったのか、それまで自分が抱いていた「日本人」と、日本の「日本人」とのギャップに、ショックを受けた。学校の課外活動後の振り返りでは、「反省」をすることへの違和感を覚えた。

日本の次に暮らしたカナダでは、ほめる教育、多様性を尊重し、自主性を重んじていた。

カナダの中学校へ入学して間もなく「リーダーシップ・トリップ」という合宿があった。新しい仲間を知る事はもちろんだが、団体生活を通して協力の重要性を学び、リーダーシップを磨くことが目的であった。

学校には異なる宗教・文化的背景をもつカナダ人や様々な国籍(留学生や多重国籍)の生徒が通っていた。ポタージュではなくミネストローネのように、異質の隔たりを統合するのではなく、各人の味を活かして共存していた。

ケベック市のウィンターカーニバルへ。外国人生徒の課外活動での一枚) 左から、確かチェコ、ブラジル、アメリカ?、韓国、日本。

まさに、多文化主義のカナダそのものを反映していた。故に、カナダでは相互理解を若い頃から身につけさせる必要性があるのだろう。これがグローバリゼーションがもたらす世界のように感じた。

この合宿を通じて、多民族で構成されているカナダだけに、自らの意見を主張しながらも、他者の意見を聞き、お互いを尊重しあう大切さを強く感じた。また、セッション終了後の振返りでは、各グループ内で、一人ひとり他のメンバーが貢献したこと、何が良かったかを指摘し、励まし(褒め)あうことが印象的であった。

各自に自信を持たせ、長所を伸ばし、風通しが良くなった結果、短所の改善も期待できるというものだ。メンバーの中で信頼関係が築かれ、仲間意識が生まれ、色々な意見が発せられる環境が整う。こういう環境でこそ、新しいアイディアがひらめくと考える。なお、この合宿で学んだ「Leader is not a position, it’s action(リーダーとは地位ではなく、行動のことである)」、これこそがリーダーに不可欠な要素であり、この言葉は今でも肝に銘じている。

カナダ・ケベックに住んでいた頃のユダヤ教信者の友人の誕生日会。ユダヤ教では13歳男子は成人にあたり、「バル・ミツバー」(Bar Mitzvah)という成人式を開いて盛大に祝う。このときのゲームの景品にはiPodや高級スピーカーがあった。

日本帰国前に暮らしたドミニカ共和国では、政治腐敗に加え、貧富の格差が激しく、国自らが国内問題を解決することは難しい。

民主主義の基本は、国民一人ひとりが主役であり、国を構成する。そして、国が透明性をもって情報を提供し、各自が意見(異見)を出し、少数意見を組み入れながら議論し、政策決定するものである。

制度の上では選挙を通じて民意を反映できることになっているが、多くのドミニカ人は、その権利を認識する機会すらないのだ。この原因は教育にあるのではないだろうか。

ドミニカでは、貧民街の子供たちに英語を教えるボランティア活動に取り組んだが、貴重なノートの余白が見えないくらい書き込みをする彼らの姿勢に、大いにやりがいを感じた。同時に、私たちが当然と思っている教育の機会均等が実現されていない社会的矛盾を痛感した。

ドミニカで習っていた剣道の仲間と

海外生活が長かったが、2,3年おきに転々としていても、自らの心のよりどころ、すなわちアイデンティティーは「日本人」であった。このため将来は日本で学び、日本の大学へ進学したいと考えており、望み通り第一志望の大学へと入学した。

しかしそこでは馴染めなかった。

アルバイトは自らの経験を踏まえて帰国受験生の指導を主に行った。親しくなった友人は帰国子女、海外留学経験者や海外への興味がある学生たちであった。私のルーツや育ち方によるものだろう。このような仲間は一緒にいるうえで心から居心地がよかった。

実際に接する日本人は、自分の抱いていた「日本人」のイメージと違ったからだろうか、当時はとても時代劇が好きで水戸黄門や暴れん坊将軍を好んで鑑賞していた。わかりきった勧善懲悪のストーリーに加え、憧れていた「日本」がそこにあった(むろん、人による支配・仕組みについては違和感を感じたが)。

私にとっての「日本人」のイメージとは、時間に正確で、礼儀正しく、勤勉、真面目で、他人のため(世間を恐れて?)自己犠牲をする人々である。実際、帰国して財布や携帯等の落し物でも、自分の元に戻ってくることに驚いた。居酒屋ではボトルがキープされているし、カフェでPCをおいて席を離れられる。そんな安心・安全な社会は素晴らしい(自動販売機も安全な日本ならではだそうだ)。

また3.11の震災発生時は日本にいたが、真夜中になり漸く辿り着いた新宿駅の光景は感動した。そこにいた人々は、通り道を空けて整列し、座っていた。また、新宿駅まで歩く間、略奪などは起きず、むしろ飲み物の提供やトイレも整列しながら待つなど、支え合いの精神に感動した。どこへ行ってもサービス精神旺盛な日本は生活しやすい。

その一方で、朝の出勤時の日本人は、まるで人が違う。朝の駆け込み、押し込み乗車、出勤時の暗い顔。嫌な景色である。会社や取引先との人間関係、ステレオタイプで生きることの心苦しさ、我慢へのストレスが爆発するのは夜の飲み会だ。会社や仕事の飲み会は半ば強制参加で、その後の仲間内の飲み会では爆発する。そのせいか、夜の街は己の限度を超えた酔っ払いで溢れている。いつも世間を気にしている日本人はどこに行ったのか。そしてなぜいくつになっても日本の飲み会は大学時代と変わらないのか。

もしこういう発散によって過ごし易い「日本」や「日本人」が成りたっているのだとすれば、この循環はよいことなのだろうか。

朝の通勤ラッシュ

大学を卒業後、日本の大手企業に入社した。

この会社の組織は、前述した「日本人」の集まりであった。年功序列、自由な意見を言えない「空気」、紙社会、個人/自分を捨てるーーそうでないものは、辞めるか同期化/同調化が求められる。

日本の企業による個性略奪は就活から始まる。黒いカラスの群れのような、就活生。自分らしさを表わすひげや、アクセサリーの着用、多様な食生活や祈りの時間等宗教への理解がない。そういう現状を見ているだけに、秋葉原や原宿で個性的な個人をみると嬉しい。一人ひとり違う人間が自らの個性を発揮することは素晴らしい。違いを隠さず、違いを肯定的に捉え、自分らしさをどんどん発揮したら良いと思う。これも日本の素晴らしさであり文化である。

こう思う自分もステレオタイプな「日本人」なのだろうか。

一人ひとりが活躍できる環境とは、自ら考え、その人らしく働くことで柔軟な発想が生まれてくるのではないだろうか。意見を言える職場環境とは多様な背景をもつ個々人を尊重することではないだろうか。

いま働いている部署での職場環境に限れば、とても恵まれている。自分らしく振舞うことができ、意見を自由に言える。尊重されていることが実感できるからだ。このため、上司や先輩から業務に関することで厳しい指導は苦と思わず、真摯に受け止めることができる。

これは信頼関係があるからである。これは万人に共通する普遍的なものではないだろうか。私の会社のネガティブな面を述べたが、良さは、みながとにかく真面目であることだ。「ほうれんそう(報告連絡相談)」が徹底しており、上司指示や顧客依頼はすぐ対応する。熱い社員が多いと思われる。但し、手続き外や型はずれのことは受け入れ難い。この変革にいま全社を挙げて真剣に取り組んでいると思う。

このエッセイを書きながら気づいたのは、ステレオタイプの「日本人」の息苦しい点を改善することがまさに、働き方改革/職場環境の改善につながっているのではないか、ということだ。大手企業での不正やその隠ぺい、各種ハラスメントの根底に潜むもの、また、その弊害が日本社会で生じている理由は、「日本人」の中にあるのではないかと思う。

仕事の質や技術力、仕事へのこだわりは「日本人」の勤勉さによるもので、強みだと考えるものの、これからの世界市場で競争力を高め、日本の技術力を発揮するうえでは、イノベーション(=技術革新を行うためには発想と発信ができる環境)が不可欠だ。男女を問わず多様な国籍人種間でお互いに尊重できるような環境にしていくには「日本人」の在り方を考えていく必要があるような気がする。

「日本人」の良いところを活かしつつ、日本型の年功序列、終身雇用制度が変わろうとしている中、働き方を含め、多様な社員への尊重、個々の違いを認めることがこれまで以上に求められていると思う。これは日本社会全体で言えることではないだろうか。

Shiori Clark

様々なルーツやバックグラウンドの交差点に立つ人たちは、自分を取り巻く地域の風景や社会のありようを、どう感じているのでしょうか。当事者本人が綴った思いを、紹介していきます。

投稿もお待ちしております。さまざまなルーツの交差点に立つ、皆様のライフストーリーを教えて下さい。掲載の場合はご連絡を差し上げます。(英語、邦訳つきの他言語での寄稿も大歓迎です!)

送付先:blogs@huffingtonpost.jp


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20歳を過ぎるまで、存在しない国の人だった。そんなぼくが考える、いつでも逃げられる自由

ぼくは二十歳を過ぎるまで、存在しない国の人だった。そのせいか、どの国に対しても、「ここが自分の国だ」という実感を持ったことがない。むしろそういった実感を持つことから全力で逃げてきた。

ぼくは朝鮮人の両親のもと、日本で生まれた。朝鮮人はこの世に存在するけれど、朝鮮という国は今のところ存在しない。あるのは北朝鮮か韓国だ。朝鮮籍の人とは、朝鮮が北と南の二つに別れた時に韓国籍を選択しなかった人のことである。

ぼくの祖父母は当時韓国籍を選ばなかった。ぼくの両親も朝鮮籍のままでいたので、ぼくも自然にそれを引き継いだ。韓国を選ばないということは北朝鮮を支持する人なのだろう、と理解する人もいるけれど、ぼく自身は生まれたら朝鮮籍だったので、そう思われるとちょっと戸惑ってしまう。

 実家に置いてある、朝鮮舞踊家の絵

朝鮮籍を持つことを、「統一するであろう朝鮮」という想像上の国家を支持することとして捉える人も中にはいる。ぼくはこっちのアイディアの方が好きだ。現在はないが、過去に存在し、そしてもしかすると未来にまたやってくるかもしれない国を支持するなんて、すごくポエティックだと思う。

そんな概念として気に入っていた朝鮮籍を、自由に海外に行きたいという理由からぼくはあっさりと捨てた。朝鮮籍だと海外旅行をするときの手続きがいろいろと面倒で、フランスへ行きたかったぼくは、韓国籍を取得した。だから、朝鮮籍を持ち続けている友達と会う時はなんだか気まずい。欲望に身をまかせた裏切り者、とでも思われている気がして、申し訳なくなる。もちろん、友達はそんなこと思ってないだろうけれど。しかしその数年後、ぼくはさらに韓国も裏切ることになる。

渡仏して12年たったころ、つまり昨年、ぼくはフランス人になった。つまり、日本語では帰化、フランス語ではナチュラリザシオンと呼ばれる手続きを行ったのだ。ナチュラルが「自然」と訳されるので、ナチュラリザシオンは「自然化」ということになる(ぼくは今まで「不自然」なものとして生きてきたのだろうか? という疑問はここでは置いておく)。

フランス国籍を取得した理由は、これまた実用的なものだ。まず、滞在許可証を受け取る時、悪名高いボビニーの警察署で毎回半日以上待たされるのを面倒に思ったのがきっかけである。外で列に並ぶ時、夏はまだいいけれど、冬はすごく寒いのだ。寒い中、長時間じっと待っているのはつらい。代理で待ってくれる人を雇う人もいるくらいだ。あとはまあ、ここで仕事もしているし、ずっと住むなら何かと便利だろうし……と実用的な理由をあげればキリがない。

道で発見したカフェの看板、TOUT VA BIEN(すべてはうまくいく)

それとは別に、韓国に住んだこともないのに韓国人と名乗る違和感に耐えきれなかった、というのもある。ぼくの家族は日本に住んでいるし、ぼくの母語は日本語だ。フランスで韓国出身の友達と話す時、共通言語はフランス語となる。「ぼく韓国人なのに韓国語話せなくてごめん」となぜだか情けないきもちになってしまう。

ちなみに、それとは異なるタイプのうしろめたさを、日本の友達に対しても感じることがある。ぼくは日本人みたいな日本語で話すものだから、こっちから言わないかぎり、向こうはぼくが日本人であると勘違いしている。騙しているつもりはないのだが、なんだか落ち着かない。そして、カミングアウト(?)した後、日本語うまいね! とフォローされるたびに感じるかすかな虚しさ。

自分にとっていちばん実用的でドライに接することのできる国籍を選ぶことで、ぼくは、こうした日本、朝鮮、韓国をめぐる煩わしさら逃れたかったのかもしれない。

友人の写真作品のためにパフォーマンス

こうしてぼくは朝鮮という概念を裏切り、韓国からも逃げ、日本に帰化することもせず、フランス人となった。しかし、不思議なことに、フランス人になることで、朝鮮、韓国、日本という三つの国のバランスを、心の中でうまくとれるようになった気がする。これで、ぼくが心からフランス人になれれば、すべてはうまくいくはずなのだ。

フランス国籍取得で変わることといえば、投票。前回のマクロンvsルペンの選挙には間に合わなかったが、次回からは投票ができる。人生で初めての投票だ。まだ大統領候補者も決まっていないのに、誰に投票しようかな、とぼくは今からワクワクしている。このワクワク感はフランス人っぽい気分を盛り上げるのにとても効果的だ。どっちにしようかな、と考えているときは、自分がすごく愛国民になったように思える。

実際、前回の選挙では、投票について語る人たちは皆イキイキとしていて、ぼくも、マクロンかルペンか? と盛り上がりたい気持ちでいっぱいだった。これはサッカーのワールドカップと同じで、フランスが勝った時、フランス人のサポーターはよっぽど嬉しかっただろうな、と想像してぼくは羨ましくなる。ぼくなんか、友達に「で? きみはフランス応援してるの? それともクロアチア?」と聞かれるくらい、まだフランス人としての態度が板についていないのだ。

友達が作成したワールドカップ・トーナメント表

そう、ぼくに決定的に欠けているものは、国に対するまじめさ、つまり国民としての意識なのだろう。なぜならぼくは、あてがわれた概念に対して責任を持つなんて馬鹿げているとつねづね思ってきたからだ。そして、その責任を押し付けるものからいつも逃れようとしている。しかし、フランス人となることを選んだ今、ぼくはそこからもう逃れられないのかもしれない。

フランス人という形式に従ううちに、フランス人でありたいとする欲望はぼくにつきまとうのだろうし、そうこうしているうちに、ぼくは本当のフランス人にすっかり似た何かになってしまうのだろう。例えそれが実用性からスタートしたものだとしても。それはそれでいいことだ。やっと一つの国を選び、「この国の人」になれたわけだし、ぼくだってこの国を、心の底から愛してみたい。

でも、とぼくは思う。

この、いつでも逃げられる自由というものをぼくは大事にしなければならない。

それはつまり、形式とそこから生まれる欲望から、つねに逃れられるよう心の準備をしておくということだ。この自由を失くさないために、いつもどこかで、愛するものを裏切らなければならないとしても。ぼくにとって自由とは逃げ続けることで、この一種の強迫観念のような逃走への思いを、どうしても自分から切り離すことはできないのだ。


SHIORI CLARK

様々なルーツやバックグラウンドの交差点に立つ人たちは、自分を取り巻く地域の風景や社会のありようを、どう感じているのでしょうか。当事者本人が綴った思いを、紹介していきます。

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