アート&カルチャー

歌舞伎町伝説の「元中国人」密着選挙映画が見せる日本人の「排外性」–野嶋剛

 現在、東京の「ポレポレ東中野」でドキュメンタリー映画『選挙に出たい』が公開されている。1988年に留学生として来日し、20年以上にわたって歌舞伎町の風俗界で働き続けた伝説的人物、李小牧(り・こまき)さんを密着取材したもので、彼が2015年に日本国籍を取得し、その年の新宿区議会選挙に出馬して落選するまでを追っている。監督の邢菲(ケイヒ)さんは中国出身の女性フリーディレクターで、日本のテレビ番組制作会社でドキュメンタリー番組などを手がけてきた。

父を裏切った政治へのリベンジ

 まずドキュメンタリー作品としてのクオリティーの高さには、目を見張らされた。長期間に及ぶ密着取材で大量の素材を集めたであろうが、よく吟味されており、巧みな編集によって過不足なく仕上げた78分間の作品は、テンポがよく観客を飽きさせない。邢菲監督はこれが初の長編作品というから驚きだ。

「歌舞伎町案内人」として名を馳せた李さんは、歌舞伎町で故郷湖南の料理店「湖南菜館」を経営しながら、『ニューズウィーク日本版』などにコラムを持ち、著書も多数ある。本作は、このユニークな素材に対して適度な距離感を保ちながら、表も裏もあっけらかんとカメラの前にさらけ出す主人公の善悪や美醜を超えた人間性の面白さを掘り起こす。

 なぜ中国の国籍を捨ててまで出馬するのか、という問題に迫るため、邢菲さんは李さんの帰省に同行する。そして文化大革命時代に毛沢東を支持する「造反派」として権力の側に立ちながら、文革後に政治犯として投獄され、家族に辛酸を嘗めさせることになった父親への思いを語らせているパートは、圧巻である。

 李さんの青少年時代は中国の政治によって破壊され、役者への夢も閉ざされた。それなのに、日本で政治に希望を寄せて選挙に出た。その理由を、李小牧さんはこう語る。

「父は政治を志して失敗に終わった。だから俺は日本で試してみたい。民主社会の政治というものを」

「俺は父の影響を受けている」

「政治はやっぱり崇高なものだと思うんだ」「誰もが参加すべきもの。それが政治だ」

 中国を追われるように日本に渡った李さんは、父を裏切った政治に対して、いい意味での「リベンジ」をここ日本で果たそうとしているのである。

「中国人嫌いなんだよ」

 映画評としては「ぜひ観に行ってほしい」という以上に言うことはないのだが、この作品を観た日本人として、どうしても注目せざるを得なかったところがある。それは作品中に登場する日本人の反中的言動である。

 李さんの選挙活動中、通りがかったある高齢の女性は、「李」という名前から彼が韓国人だと信じ込んでいた。カメラを向けた邢菲さんが、李さんは元中国人であると告げると、こんなセリフが洩れる。

「中国の人じゃ私、支持できない」

「悪いけど、韓国の人はまだいいよ。合わせようとしてくれるから。日本人を嫌いでも」

 その理由を問われると、女性は隣人にうるさい中国人がいて、注意したらトラブルになったからだと明かす。

「怖いよ、性格が」

「女の人よ。日本人だったら気をつけるでしょう」

「それは違うと思うのね」

「ちょっと敬遠する」

 と、言葉は続いていく。

 サラリーマンの若い男性は、歩きながら邢菲さんとこんな会話を交わした。

 男「あんた中国人だろ」 

 邢菲さん「私も中国人です」

 男「オレ中国人嫌いなんだよ。間接侵略しているからね。香港と台湾はまだ信用できるけど、大陸の人間は大嫌いなんだ」

 邢菲さん「彼に対しても?」

 男「落ちてほしいね」

 また、喫茶店の店主の女性は、こう語る。

「みんな日本人は文句を言わないで与えられた仕事をこなしているから、なんとかなっているのよ。そこへさ、中国人が来てさ、それでもう薬やるし、カードは盗むし、殺しも入ったからね それからピッキングが入った。もうないものはないものね、中国人がやったのは」

「私は日本人です」

 そうした言葉の刃は、日本人の老若男女から李さん自身にも次々に向けられる。それでも彼は踏みとどまって「これが民主主義」と笑顔を見せ続ける。だが、表情ががらりと変わった唯一の瞬間があった。

 李さんが街頭演説をしているとき、男性の通行人から「中国に帰れ」という罵声が飛んだのだ。早足で立ち去っていく男性に対して、李さんは追いかけながら、叫び続けた。

「どこに帰れというんですか。私は日本人です。元中国人ですよ」

 この正論に、男性から一切の返事はなく、雑踏の中に消えていった。

 やらせではないかと疑わせるほどにストレートな日本人たちの肉声が、この作品には詰まっている。すべての日本人が彼らと同じだというつもりはない。ただ、その強烈な排他性が、我々の社会の一部に確かに存在することを突きつけられるのみだ。

 それらの声は、相手が邢菲さんだからこそ語られ、得られたものではなかっただろうか。

 もし、日本人がビデオカメラ向けていたら、彼らはこんな話をしなかったのではないか。世間の評判を重視する日本人は、日本人同士で差別的な話をすることは滅多にない。中国人の、しかも、若い女性が相手だから、大胆に語った部分があったように私は思う。

 私の個人的感想だが、中国人が日本人を批判するときは、仲間内や身内で語っている言葉をそのまま日本人に投げつける。日本人の場合は、仲間内や身内では語らないようなことを中国人に投げつけるように見える。

格好悪かった「民主党」

 日本の反中感情の拡大には、中国の反日的行動や在日中国人の素行など、それなりの理由がある。しかし、その中国国家や中国人全体を、目の前にいる李さんという、日本社会に最も深く根付いた中国人の1人であり、日本に帰化した人物に、すべて背負わせるような言動は、あまりにもアンフェアではないか。

「こと中国人に対しては仕方がない」という言い訳は成り立たない。もし、人権に敏感な国であれば、一言でアウトになる発言ばかりである。さらに言えば、李さんは選挙に出ている時点で、中国人ではないのだ。

 かねて私は外国人の知人に「日本人は排外的だ」と言われるたびに、「そんなことはない。誤解している」などと反論してきた。入国管理や住民登録などの制度的な欠陥は認めつつ、日本人そのものの本質を弁護してきた人間なのだが、この作品を観たことを機に、2度と自信を持って「日本人は排外的ではない」と語れないなとつくづく思った。

 繰り返しになるが、邢菲監督は、こうした点にスポットを当てるためにこの作品を撮ったわけではない。上映後の舞台挨拶で「日本人を嫌いになりませんでしたか」と質問された彼女が、「中国人にそう思われる理由があるので、私たちも反省しなくてはなりません」と淡々と述べた姿が印象に残った。

 最後に付け加えれば、李さんの出馬に対して、格好悪い対応を見せたのは当時の民主党だった。最初は党の公認候補としての出馬をもちかけながら、歌舞伎町で活躍した外国人であるという理由で、扱いを公認から推薦に取り下げた。ところが、無所属で出馬した李さんの当選が見えてきた途端、手のひらを返して彼のポスターに民主党のシールを貼るという一貫性のなさ。多様性や他者への包摂を掲げた政党らしくなく、その後に起きた党の消滅も、むべなるかなと思わせた。

『選挙に出たい』の上映情報はこちらから。


野嶋剛 1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2018年12月8日フォーサイトより転載)

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『葡萄畑に帰ろう』政界時代のおかしな体験をコメディ映画に。ジョージア映画の重鎮監督インタビュー

『葡萄畑に帰ろう』の1シーン

 ジョージア(グルジア)映画界の重鎮、エルダル・シェンゲラヤ監督の21年ぶりとなる最新作『葡萄畑に帰ろう』が12月15日より公開される。

 ジョージア映画は、セルゲイ・パラジャーノフ監督や、テンギズ・アブラゼ監督などソ連時代に世界的な巨匠を排出し独自の存在感を示してきたが、独立後は長い低迷期に入っていたが、近年若手監督の成長により再び脚光を浴びつつある。

 エルダル・シェンゲラヤ監督は、そんなジョージア映画界を代表する人物だ。ジョージア映画人同盟を務め、ジョージアがソ連から独立した時には政界に求められ、国会副議長を務めたこともある。弟のギオルギ・シェンゲラヤ監督とともに長きに渡りジョージア映画を支えてきた存在で、映画界のみならず一般市民からも厚く信頼されている。

エルダル・シェンゲラヤ監督(右)

 

『葡萄畑に帰ろう』はエルダル監督が政界を引退してから初めてメガホンを取った作品だ。その内容は自らの政治体験を色濃く反映したコメディ作品である。

「難民追い出し省」の大臣ギオルギは妻を早くに亡くし、息子と義理の姉と優雅な家で暮らしている。権力も金もほしいままにし順風満帆の人生だったが、嘘と権謀術数うずまく政治の世界でそれは長くは続かない。ギオルギは大臣職をクビになり、不正文書を処分しているところを使用人に目撃されてしまい窮地に陥る。そんな中、ドナラという素敵な女性と出会い、結婚するギオルギ。そして故郷で葡萄園を営む母を訪れ人生にとって大切なものは何かを彼は考え直す。

 架空の官公庁の「難民追い出し省」、ローラースケートを履いて働く省の職員、不気味にしゃべる大臣椅子などコミカルな描写の数々に政治家時代の体験を重ね合わせた、不条理でおかしな政治の世界を笑い飛ばす快作だ。

 エルダル監督に本作の魅力について話を聞いた。

 

政治の世界はおかしなことだらけ

『葡萄畑に帰ろう』の1シーン

 

――2006年に政界を引退されていますが、映画監督への復帰に10年以上かかっているのはなぜですか。

エルダル・シェンゲラヤ(以下エルダル):政治家時代もずっと映画を撮りたいと思っていましたけど、多忙でしたから叶いませんでした。政界を退いてからも色々アイデアを練ってはいたのですが、資金面でなかなか実現しない状態が続いたのです。今回の映画は、劇作家でもあるチェコのハヴェル大統領の戯曲を見つけて、脚本家と脚色してこのような形に仕立てました。

 

――政治家としての体験を反映させた作品とのことですが、本作はスラップスティックなコメディ作品で、ユーモアのある作品ですね。

エルダル:政治家時代、この映画で描かれるような状況をたくさん見てきたので、それをそのまま映画にしたのですよ。実際、政治の世界はこんなおかしなことばかり起きるのです。

 私はユーモアを大事にしています。ヘミングウェイの氷山の理論のように、見えているものはほんの一部でも実は大きな意味が込められている。そんな映画作りをいつも目指しています。観客には映画を観ている時は楽しんでほしい、しかしそれだけでなく観終わった後に、様々なことを考えることができる作品というのが私にとっての良い映画なのです。

 

――映画では椅子が意思を持ってしゃべったりするわけですが、監督は政治家だった頃、一度は支持した大統領の反対勢力に回ることもありました。あの意思を持った椅子に操られるように人は権力を手にすると変わってしまう。そういうことが込められているのかなと思いました。

エルダル:おっしゃる通りで、あの椅子は権力のシンボルです。どこにでもある椅子なのですが、まるで人間のようにしゃべって人をそそのかすのです。

 

――主人公は「難民追い出し省」という架空の省の大臣ですが、ここの職員は皆ローラースケートを履いていますよね。あれはどういう意図なんですか。

エルダル:あれは要するに、公務員たちは働いておらず遊んでばかりだということを表現しているのです。もちろん、私も実際にローラースケートを履いて仕事をしている職員を見たことはありませんが(笑)、満足に働いてくれない公務員たちをたくさん見てきましたよ。何とかして公務員たちを機能させようとしても、なかなか上手くいきませんでした。ジョージアはソ連から独立後、それまでの社会主義体制から脱却したのですが、あらゆるものが未整備な状況でしたからね。

 

ソ連時代と現在のジョージア映画

『葡萄畑に帰ろう』の1シーン

 

――監督はソ連時代からジョージア社会を見てこられていると思いますが、現在のジョージア社会をどのように評価していらっしゃるのでしょうか。

エルダル:ソ連時代は一党独裁で国民は指導者たちの奴隷のようでした。その頃に比べると、現在のジョージアは驚くほど大きな変化を遂げています。人々は自由になり、二大政党制が実現しています。

 

――それではジョージアの映画産業はどのように変化しましたか。

エルダル:逆説的な話ですが、ソ連時代は政府が映画産業に力を入れていたのでとても発展していて、実際に素晴らしい作品がたくさん作られていました。ただ、その理由はプロパガンダ映画の製作にありました。そんな中でも当時の現実を見つめた名作が数多くあったのも事実です。例えば、私はソ連時代に『奇人たち』という作品を作りましたが、政府はこの映画をおとぎ話だと解釈したのですが、私はあの映画に「隠れたメッセージ」を込めていたのです。

 

――ソ連から独立後、ジョージア映画が低迷したのは、国の支援が乏しくなったからということでしょうか。

エルダル:そうです。低迷の一番の原因は資金調達が困難になったことです。それは今でも続く問題ですが、ザザ・ウルシャゼ監督やギオルギ・オヴァシュヴィリ監督など新しい世代の監督たちが世界的な評価を受けるようになってきています。ソ連時代ほど資金は潤沢ではありませんが、ジョージア国立映画センターが若手監督の支援を重視してきた結果が表れてきていると思います。


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BTS原爆Tシャツ問題 「語られない」背景とは? K-POP研究、第一人者の分析

BTS

「日本と韓国、お互いのナショナリズムばかりが強調されて、BTS(防弾少年団)を通していまのK-POPを考える機会が失われた」――。こう語るのは『K-POP 新感覚のメディア』(岩波新書)などで知られる北海道大学のキム・ソンミン准教授だ。

ソウル生まれ、研究のため来日して日本の大学でメディア文化研究を続ける第一線の研究者である。彼の目にBTSの原爆Tシャツ問題はどう映ったのか? 韓国の視点、日本の視点、そしてK-POPの歴史が複雑に絡まりあう問題を聞いた。

経過を整理する

まず簡単に経過を整理しておこう。

11月9日に放送された人気音楽番組「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)で、予定されていた韓国のヒップホップグループBTSの出演が直前にキャンセルとなった。

BTS についてメンバーが原爆投下を肯定するTシャツを着ていた、と一部メディアで報じられ、ネット上で「反日だ」などと批判の声があがっていた最中でのキャンセルだった。

問題とされたTシャツは「ourhistory」の商品で、原爆が落とされた直後のキノコ雲の写真と、解放、愛国心といった言葉や万歳をする人々が写っている写真がプリントされていた。製作者は「反日の意図はなかった」としている。

さらに過去にナチス親衛隊の記章をつけた帽子、ナチスを連想させるステージパフォーマンスを披露していたことも問題視され、アメリカのユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」も彼らに抗議をした。

BTSのメンバーが着用していたとして問題になった「原爆Tシャツ」。

彼らは反日でナチス支持なのか?

《これまでのBTSの発言やインタビューからも明らかですが、彼らが「反日」だとか「ナチス支持」というのはあり得ないことです。

日本だけでなく、グローバルにファンを獲得し、アメリカでもライブ会場を満席にし、チャートも賑わせています。音楽的にもブラックミュージックの強い影響を受けている。

ファンを傷つけるようなことをする理由がない。私はTシャツについては韓国と日本で歴史の受け止め方が違うということに尽きると考えています。》

韓国社会にとっての原爆とは何か。その背景にあるもの

韓国の歴史、特に近代以降の歴史は日本の植民地支配の歴史でもある。支配した側である日本とまったく同じような歴史認識ではない。

《韓国社会が原爆投下に対して、日本社会のように特別な思いを抱いているかと言えばそれは違います。

広島や長崎に人が住んでいたことへの想像力、原爆について日本に住む人たちがどう受け止めるのか。そこに対する感受性が足りないのは事実でしょう。当時、7万人以上とされる朝鮮人が被爆したことも十分に知られていないですし。

韓国にとって第二次世界大戦の歴史は、日本の植民地支配からの解放の歴史です。韓国は常に「被害者」だったので、他の社会からみてどうかと問われる機会が少なかったし、配慮が求められる場面も少なかった。

Tシャツをデザインした会社も「反日の意図はない」としていましたが、それは本当でしょう。

だから問題がないわけではない。K-POPはグローバルに広がっているため、これまでと同じではなく今まで以上に他の人たちからみてどうなのかを考えていく必要があります。》

K-POPが積み上げてきた文化

ナチスを連想させるパフォーマンスについてはどうか。

これは2017年9月に韓国のソ・テジさんのデビュー25周年記念ライブでBTSがゲスト出演した際に披露された。

《ナチスについても同じです。コラボ舞台を披露したソ・テジは、韓国にヒップホップやラップを定着させる一方でデビュー以来一貫して社会的なメッセージを発してきた韓国を代表するアーティストです。

今回のパフォーマンスで使われた「教室イデア」という曲も、全体主義的な教育制度や競争を促す社会を痛烈に批判した曲です。

つまり、ソ・テジからBTSまでの「文脈」を理解している人からすれば、彼らがナチスに賛同するパフォーマンスをするはずがないということは常識とも言えることです。

しかし、いまK-POPを受容しているグローバルなファンの大半は、当然そのような文脈を共有していない。

だから、本来なら当たり前のようにわかってもらえたはずのそのようなパフォーマンスをするときも、より多くのことを配慮しなければならなくなっているし、今後はそれがまた当たり前なことになっていくでしょう。》

吹き荒れる「ナショナリズムの政治」

ただし、とキム准教授が指摘するのが過熱化する社会の反応だ。

《本来なら、傷ついたり、戸惑いや違和感を感じた人びとに対して、BTSが丁寧に説明、謝罪して終わりの話です。

インターネットで「反日」だと批判されたからといって、テレビ朝日は出演中止をするべきではなかったと思います。

これによって「ナショナリズムの政治」が前面に出てきました。インターネットを含めたメディア上でも、日本からは「韓国の反日アイドル」というバッシングが吹き荒れ、韓国ではそれに反応して「日本人はBTSが日本のアイドル以上に活躍したことを妬んでいる」といった声があがる。

ナショナリズムの政治は「お前は韓国と日本、どっちの味方」なのかと問題を単純化します。BTSが生み出した音楽やカルチャーは議論されず、お互いのナショナリズムをぶつけ合うだけになる。

こうした単純なフレームの中では、今までBTSを応援してきたファンたちはほとんど何も言えずに沈黙するしかなくなるのです。

テレビ朝日の対応はこうした単純なフレームワークを強化するものだったと私は考えています。》

ナショナリズムが排した大事な論点

ナショナリズムが前面に出てくることによって失われてしまうのはファンの声だけではない。K-POPが積み上げてきた豊かな表現であり、日本のアイドルとは明らかに異なる社会に込めたメッセージも議論の対象ではなくなる。

《K-POPの世界では女性アイドルも男性に媚びるようなことはしない。ジェンダー問題も歌うし、社会に対して発言もする。BTSも社会に対するメッセージや彼らのアイデンティティを歌う。

K-POPは「アイデンティティの政治」が展開されるメディアであるとも言えるのです。K-POPは常に新しいものを取り込みながら、前に進んできたという歴史があります。

それはヒップホップやクラブミュージックのような音楽的要素もそうだし、例えばMeTooのような社会の変化も積極的に取り込む。

その中では当然だけどミスも起こるのです。BTSだってジェンダーの視点から問題がある歌詞ではないかと指摘されたこともあります。

彼らは問題をファンとのコミュニケーションで乗り越えてきました。ミスから生まれるコミュニケーションを大事にしてきたのです。日本のメディアの対応は過剰であると同時に、コミュニケーションの機会を奪ってしまっている。》

奪われた学び合いの契機

過熱するナショナリズムの政治は、アイデンティティの政治を飲み込んでいく。

《今回だって、BTSを通じて韓国のファンは日本の歴史にとって原爆はどのような意味があるのか、日本のファンは韓国の歴史がなぜ「解放」に重きを置いて語られるのかを理解しあう良い機会になったと思うのです。

それが彼らの音楽をちゃんと追いかけてきたファン以外の人の声によって、ナショナリズムの問題に押し込められてしまったことは残念としか言えないですね。》

それでも前を向くK-POP

K-POPは2000年代に入ってからも韓国政府が積極的に「利用」しようとしてきた歴史もある。K=韓国(Korea)の意味合いが強くなった時代だ。だが、今はどうだろうか。BTSに代表される新世代のK-POPはグローバルに消費され、世界から注目されている。

Kよりも、新しいPOPカルチャーという意味が強まってきているとは言えないだろうか。

《まさに今K-POPはPOPがKを乗り越えようとしています。韓国という国家、韓国人というナショナリズムを超えた新しいポップカルチャーに成長している。

韓国文化には立ち返るところがないのです。政治的にも戦後、南北分断と冷戦体制による緊張状態のなかで長く続いた軍事政権に立ち返るわけにはいかない。

前に向かうしかないのです。新しいカルチャーを取り入れ、グローバルに広がっていくK-POPはその象徴的な動きでしょう。

彼らがグローバルにメッセージを届ける。それが新しいポップとして受容されている。原爆、ナチスイメージの騒動は成長したK-POPは外からの視点を意識しなければならないという教訓になったと思います。

まだまだK-POPもBTSも成長の途上なのです。》


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木村伊兵衛写真賞の最終ノミネートは、全員女性だった。 男と女、写真の撮り方はどう違うのか。

小松浩子、藤岡亜弥、片山真理、笹岡啓子、春木麻衣子、細倉真弓。

この6人は2018年、第43回木村伊兵衛写真賞(木村伊兵衛賞)に最終ノミネートされた人たちの名前だ。

みなさんは、全員女性だということに気づいただろうか。

全員が女性だったのは、木村伊兵衛賞の選考でも初めてだという。

アサヒカメラ」9月号が、「この女性写真家がすごい」と題した特集を組んだ。92年の歴史のなかで、女性写真家を特集するのは初めての試みだ。

「アサヒカメラ」9月号

「アサヒカメラ」の佐々木広人編集長は、なぜ今この特集を組んだのか。

女性の写真は、男性と何が違うのか。「男と女、分ける意味はあるのか」と自問自答したと語る佐々木さんに、木村伊兵衛賞の選考過程や、男女における写真の表現の違いについて聞いた。

佐々木広人編集長

「あれ、全員女性じゃん」の声は最後に上がった

――9月号の『この女性写真家がすごい!』という特集、92年の歴史で初めてだそうですね。

たぶん初めてだったと思います。

――女性写真家特集、大きな試みだったんじゃないかなと。

普段、大テーマは自分で決めてやっていたんだけど、これはうちの編集部の部員から、「女性写真家の特集やらないか。やったほうがいいんじゃないか」って言われたんです。

――部員の方は女性ですか? 男性ですか?

男性でベテランですね。木村伊兵衛写真賞のノミネートが6人全員女性だったというのは、非常に大きいです。

実は最終ノミネート6人の前に64人推薦されているんです。4人の選考委員がノミネートを絞り込んでいくわけですけれども、今年は64人中女性が18人。そのうち6人残った。逆に男性は全員落ちたわけです。

僕も選考に加わっているので内情をいうと、それぞれ最終ノミネートを一人ずつ開けていったんです。そしたら、「あれ、全員女性じゃん」と最後に声が上がったの。そのくらい女性だからという意識は全くなかった。

――選考過程で、女性はあまり意識していなかった?

全く意識せずに選んでいる。

――作品を見るときに、性別は分かるんでしょうか?

写真集や図録だったりするので、顔と名前が出ていて、経歴も内部資料として冊子にまとめてあります。ですけど、男性だから、女性だからということはありませんでした。

ただ、過去の歴代の受賞者一覧を見たときに、第4回で石内都さんが受賞されているんだけど、次が(第15回の)武田花さんかな。女性は圧倒的に少ないわけですよ。

よくいわれる、(2000年度に)蜷川実花さんと長島有里枝さんとHIROMIX、女性3人が受賞したのはエポックメイキングな出来事でしたけど、この辺りからやっぱり増えている。

(今回の特集で)写真史研究家の戸田昌子さんも書かれていたと思うんだけど、2000年に女性が出てきて「ガーリー」だと批判的に書かれたけど、あれ以降の写真史で、ちゃんと女性の写真家を評論したことは、うちであんまりなかったんですね。

「『女の子写真』からの四半世紀」と題した、写真史研究家の戸田昌子さんの寄稿

今、女性写真家を特集する理由

――女性写真家を初めて特集しようと思った理由は?

僕は女性写真家だけことさら取り上げることに抵抗があったんです。なぜかというと男性も女性も関係ねえじゃんっていうのがあるわけです。

「女性写真家というのは大変だったんだ」と石内さんからもいろいろ聞いているんだけど、僕らは、写真家から写真を預かって作品を見て、載せるか載せないか。そこでしか判断していないんですよ。

ーー佐々木さんは、2014年に「脱カメラ女子」というテーマで寄稿されていて、女性がいわゆる「カメラ女子」時代から脱する機会を提供したいと書かれていました。

あの頃、流行っていて実際カメラ女子向けの本もあったし、うちもムックにチャレンジしたんですよ。でもあんまりセールス的にはうまくいかなかった。そういうのを積み重ねていったときに、男子も女子も関係ないじゃんという。

僕はいわゆる生物学的な区分でいえば男だったりするけども、マインドその他含めたところで、ほんとに(男と女の)間にいる方やトランスな方は、写真家にたくさんいるんですよ。

そうした写真家が本当に素晴らしい作品を撮っている。男、女と分ける意味はあるのかと思っていたんです。

ただ今年の木村伊兵衛写真賞、全員ノミネートが女性って、確率論的にすごいじゃないですか。無作為で6人女性並べるって、男性を同じく並べるのも大変。ある意味事件です。

写真家が、写真で世を記録するのと同様に、僕らも写真界のことを記録していかないといけないんじゃないか。来年になったらもっと理解が進んで、男だ女だっていう区分で語れるのは、実は今年ラストチャンスかもしれないなと。

多少のハレーションはあるだろうなと思います。でも今だったらまだジェンダー論に未熟な人でも入っていけるかもしれない。このチャンスは最初で最後かもしれないなと思ったんです。

男と女、写真の撮り方はどう違うのか

――写真史研究家の戸田さんが記事で「男性写真家と女性写真家の表現の落差は、いつか個性の中に融解することが正しい道だろう」と書かれていました。男女の”表現の違い”についてどう思いますか?

うちの読者も、(日本近代写真界を代表する写真家の)木村伊兵衛、土門拳、大竹省二の域から抜けられない人がいます。だけど、木村伊兵衛賞の審査員はホンマタカシさんがやっていて時代は変わっているわけですよね。

Instagramを見ていると、”インスタ映え”という表現もある一方で、かなり色と光を使った抽象的なデザインチックな作品を出して、たくさん「いいね!」をもらっている人がいたりする。

写真にはこれだけ幅があるんだよと見ていったときに、(今回の木村伊兵衛賞も)結果として推進役になっている人が選ばれていると思いました。

例えば、(現在90歳の)西本喜美子さんは70代でカメラを覚えて、この自撮り。小難しいことは、全部流し撮りで、めんどくさいことは、彼女曰くPhotoshopでやっているわけですよ。

準備完了〜〜〜

西本喜美子さん(@kimiko_nishimoto)がシェアした投稿 – 2017年12月月27日午前12時07分PST

――マニュアルで撮ることにこだわらない。

必要なのは、アイデアとセンスだと思うんですよ。それを十二分に生かし切っている女性写真家だから、今回起用している。

潮田登久子さんは丁寧にやっている人ですよね。米美知子さんは風景写真家の中でたぶん今一番人気がある方なんですけども、この方は意外と、言葉があれですけど、男前にいろんなところを歩いて回る人です。

――彼女自身も、男前な写真と言われると何かうれしいと書かれていましたね。

でもやっぱり柔らかいんですよ。日差しの捉え方とかも含めて。

梅佳代さんはご存じの通りじゃないですか。やっぱりこの被写体との距離感の絶妙さというのは、彼女しか出せないと。

――今回の特集では、少しは器材についても聞いていますが、重要視はされていないように思います。作品の評価の基準は、表現が主体になってきたのでしょうか。

感性だと思いますよ。感性とかセンスというとすごい漠然としちゃうんですけども、今までにない文脈を持ってきますよね。「そのパターン、ここで使う?」みたいな。

例えば、ヨシダナギさんとかアフリカの部族をスーパーヒーローとして撮っていますよね。たぶんアフリカで部族を撮るのは、過去に何人もの写真家がやっている。だけど、みんな土臭さとか荒々しさとか、とにかくアフリカの匂いを伝えたいと思うわけですよ。

――男性と女性で、写真の撮り方に違いを感じる部分はありますか?

うちのコンテストもそうですけど、今写真のコンテストをやって上位に来るのは、圧倒的に女性が多いんですよ。

今回のコンテストの大本になる原体験が一つあって。2015年にある写真コンテストの審査で、表彰式があって、グランプリを取った人に賞品を渡して、プレゼンターをやりながらインタビュー的に話を聞いたんですよ。

「この写真、どうやって撮ったんですか」とか言ったら「オートです」って一言で終わっちゃった。二の句が継げなかったの、僕。「オートでいい瞬間を狙っていたんですよ。それだけです」といって、照れたような笑いを見せられた時に、こっちは「マジか」って。

同じように、僕は別のコンテストで男性にも聞いたことがあります。そうすると「レンズを70-200mmのズームを、ちょっと重いんだけど結構苦労して担いでいって」というわけですよ。

レンズとかボディの切れ味とか、さわり味とか、いかにして撮ったかをとうとうと語るんです。どれだけその被写体に向かって苦労したか、山を登ったか。でなければ、こういうふうに工夫して撮ったとかテクニックのほうへ行くんですよ。

――写真道みたいですね。

正直にいうと、カワセミが水の中にポチャンと入って、池の中で魚を捕るシーンは、おじさんたちはよく撮りたがるんですけど、今は普通にどのカメラでも、ミラーレスでも、連写したら誰でも撮れる時代なんです。

フィルムの時代は、みんな一生懸命になって撮っていたわけです。だけど今それが簡単にできる。オートでできちゃう時代なんですよ。プロでもオートで使う人、今は結構いるんですよ。

――男性は、テクニック重視の傾向があるのでしょうか。

男性は、写実的な写真を撮りたがるわけです。でも今、写実的な写真はインターネットのニュースのほうが速くて分かりやすい。

作品は、報道とは違うんですよね。どういうふうに撮ったら被写体の魅力が伝わるのか、何をすべきかを頭の中で考えればいいと思うんですけども、考えずにパッとカメラを向けちゃうのは割と男性がよくやるパターンです。

肖像権の話で、困ったといっているのはみんな男です。あんまり言いたくないけども、女性の方からそういう質問は来たことがないです。多分コミュニケーションができているんですね。

――被写体が、消費する相手ではない。

子どもに向き合って、街で見かけたかわいい子とかに、きちっときれいに声を掛けて。僕も現場に立ち会ったことありますけど、やっぱり緊張を和らげるんですよ。

僕なんか、こういう体つき、顔つきのせいか分からないけど、たぶん同じことはできない。だけど本当に、見事に緊張を和らげて、すっと入っていけるんですよ。だからスナップを撮る女性は面白いなと僕も感じていました。

「彼女たちの作品はなぜ高く評価されるのか」

ーー最終ノミネートに女性が6人、写真界も変化していますね。

女性写真家を応援している気持ちもあるんですけど、実はこの特集を一番読ませたいのは、いまだに旧態依然とした考え方を持っている、おじさんのアマチュア写真家なんです。

自分は音楽をやっていまして。ドラム叩きなんです。バンドをやっていて思うんですけども、やっぱり自分たちで、自分の楽器を弾いたり叩いたりしていて、やっぱり80年代、90年代に体得したリズムから抜けられないんですよ。

それぞれの世代でヘビロテになっている曲があるはずなんですよ。もう染みついちゃってる。でも発表年を見ると、1999年とか書いてあって。

――ちょっと前のつもりが20年前だったりしますよね。

俺でもこうなんだから、年配の方も「あんなの写真じゃない」とかっていっちゃうわけですよ。大ベテランのプロの写真家でも。

あんなギラギラしたのは写真じゃねえとか言うんだけど、何でもいいじゃねえか。光と影を使ったら写真なんだよ、それを機械で撮ったら全部写真だよというのが、僕の持論です。

――特集見出しの「彼女たちの作品はなぜ高く評価されるのか」が不思議だなと。とても男性的ですよね。

なぜ高く評価されるのか。僕は意図的にこの言葉を使ったんです。評価される写真を撮りたがっている人がたくさんいるからです。

今の時代は情報がたくさんありすぎて、いい作品を見せても、たぶんピンとこない人のほうが多いかなと思ったんですよ。やっぱり人目に付かせることが重要で、刺さないとこの情報過多な時代で何もできない。

――フックになるように、あえてこの見出しにしたんですね。

ドイツ写真工業会が2014年に出したデータなんですけど、1秒間に世界中で切られているシャッターの回数が25万回というんですよ。

さっきから音楽の話で恐縮なんですけど、ギターを弾く人は少ないはずなんですよ。ほとんどの趣味はプレーヤーが少なくて、オーディエンスが多いはず。写真は逆なんです。

写真は撮る人が山ほどいて、スマホで撮る人も含めたら、たぶんみんな撮るんじゃないかぐらいの勢い。プレーヤーがこれだけ多いというのは、もう特筆すべきことですよ。

――あらためて、写真が溢れるこの時代に、「女性写真家」という新しい軸を立てた意味は?

いろんな情報が出てくるなかで、みんな撮ったことがあるものだらけなところで、新しく新機軸を打ち立てるのは並大抵なことじゃない。

今SNSの写真で、輝度・彩度を高めにしたギラギラした写真が出てきているのは、他よりもちょっと差別化しようという成れの果てなのかなという気がします。

もしかしたら彼女たちが撮っている撮り方というか被写体との向き合い方に、僕らが忘れていた、あるいは気づかなかった重大なヒントがあると思うんですよ。

(文:笹川かおり 撮影:坪池順)


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シャネルが宣言「ワニ革やヘビ革を使いません」。毛皮も廃止へ

2018/19年秋冬 プレタポルテ コレクションより

フランスの高級ブランド・シャネル(CHANEL)が12月4日、ワニ革やヘビ革などの使用を廃止すると発表した

同ブランドのファッションプレジデントを務めるブルーノ・パブロフスキー氏は、廃止の決断に至った理由について、ブランドの倫理基準を満たす方法でエキゾチックレザー(家畜以外の革)を入手することが困難になっていると説明。

ワニ革やトカゲ革、ヘビ革、エイ革などのエキゾチックレザーは希少性が高く、高級素材として使われてきたが、今後は使用しないという。

また、WWDによると、これまでもほとんどコレクションで使用されていなかったが、毛皮の使用も今後は廃止する。

毛皮の廃止宣言も続々と

ファッション業界では、動物愛護や環境保護などの観点から、毛皮や皮革の廃止を宣言するブランドが増えている。

これまでも、グッチやジャンポール・ゴルチエ、カルバン クライン、ラルフローレン、トミー・ヒルフィガーなどがすでに毛皮を使用していないと報じられている。

ハフポストマグレブ版の記事を翻訳・編集しました。


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だから渡辺直美は愛される。「自信を持っている人は、一緒に仕事していて楽しい」

渡辺直美さん

「私のような太っている女性がこういう舞台に立てる。時代が変わってきたのかなと感じます」

お笑いタレントの渡辺直美さんが、その年に「最も美しく輝いた」人に贈られる賞「BEAUTY PERSON OF THE YEAR 2018」に選ばれた。

体型にとらわれず、好きなファッションやメイクを自由に楽しみ、ポジティブなメッセージを発信しつづけている直美さん。都内で12月3日に開かれた授賞式に登壇した際、冒頭のように受賞の喜びをあらわにした。

活躍の舞台をグローバルに広げる直美さんは、「自分に自信を持つこと」を意識しているという。授賞式のスピーチと、単独インタビューの模様をレポートする

時代が変わってきたのかな

直美さんはこの日、美容系の口コミ・総合ポータルサイト「@cosme(アットコスメ)」編集部が決める「BEAUTY PERSON OF THE YEAR 2018」を受賞。

誰からも愛されるお笑い芸人として活躍し、海外を含め多くの女性たちに影響を与えたとして、2018年「最も輝いた人」に選ばれた。

ビビッドなラメ入りのアイシャドウや口紅がはえる、シックな黒いドレス姿で登場した直美さんは、「こんな賞をいただけるとは思わなかった」と驚いた様子。

「私のような太っている女性がこういう舞台に立てる。時代が変わってきたのかなと感じます」と感慨深げに語った。

自信を持っている方がいい」 渡辺直美のメッセージ

Instagramで国内1位の847万人フォロワーを抱える直美さんは、2018年6月、アメリカのTIME誌から「ネットで影響力のある25人」に選出された

同誌は、直美さんがプロデュースするサイズ展開が豊富なブランドPUNYUS』の取り組みなどを紹介し、「日本女性にまつわるステレオタイプを打ち破ろうとしている」と評している。

自分の見た目や体型にコンプレックスを感じたり、悩んだりする人はとても多い。しかし直美さんは、自分の体型を肯定的に受け止め、全力でおしゃれを楽しむ。セクシーな格好もかわいらしい格好もする。

そのパワフルさと突き抜けた姿が共感を呼び、愛されるのだろう。

「見た目とか生き方とか、『人それぞれでいいじゃん』と思う人って、最近すごく増えてるなと思います。ここ3、4年でグッと変わったんじゃないかなと思います」

授賞式の合間に実施されたハフポスト日本版によるインタビューで、直美さんはそう語った。

「みんなが、自分たちに自信を持ちはじめたというか…。自信を持っている人って、一緒にお仕事をしていて楽しくないですか?」

「自信があると、余裕が出てくるじゃないですか。そういう人とお仕事をすると元気をもらえるし、勉強にもなるし、尊敬する気持ちも湧いてくる。自信を持っている人同士が話す方が楽しいし、いい方向に進んでいくと思うんです。だから、私は自信を持つことを意識しています」

ビビッドなラメ入りのアイシャドウや口紅がはえるよう、シックな黒いドレス姿で登場した渡辺さん。「今日の眉毛はすごく盛れた」と満足げな表情。眉毛のメイクには30分ほど時間をかけるそう。

2019年は、海外の仕事も積極的に

2018年、渡辺さんの活躍の舞台はますますグローバルに広がった。

GAPのグローバルキャンペーンでのモデル起用、GUCCIの公式Instagram”デビュー”、中国版「紅白」といわれるアリババグループ主催の音楽番組への出演など…。「今年は前厄だった」と話しつつ、その充実した日々を「熱い2018年だった」と振り返る。

「バタバタな1年で、いろんなことに挑戦させていただいた1年でした。海外も多く行かせていただいたし、日本でも新しい番組をやらせていただいて、すごく充実していました」

2019年、直美さんは31歳を迎える。

「20代の頃はいろいろと突っ走りすぎたところもあるので、30代は地に足をつけて、しっかりやりたいなと思っています。日本のお仕事をやりながら、海外のお仕事も積極的にやりたいですね」

直美さんによると、基本的な活動の拠点は日本に置きつつも、月に一度は海外に行き、「仕事の幅」を広げていくという。

「英語を勉強しながら向こうのお仕事もできたらいいなと思っています。英語は毎日勉強してるから、いまは中2レベルくらいまでいきました(笑)」

唯一無二の存在でありつづける直美さんの勢いは、2019年も止まらない。

《@cosmeを運営するアイスタイル代表取締役社長・吉松徹郎さんと渡辺直美さん。授賞式では、12月3日(月)12:00から24時間限定で開催するスペシャルセールの皮切りを祝うカウントダウンにも参加した。》


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『M-1グランプリ2018』決勝進出者9組は? 優勝候補の筆頭は和牛とスーパーマラドーナ

「M-1グランプリ2018」決勝進出者9組

12月2日(日)午後6時34分から、漫才日本一を決める『M-1グランプリ2018』(ABCテレビ・テレビ朝日系)の決勝戦が放送される。

エントリー総数4640組のうち、予選を勝ち抜き決勝に駒を進めたのは以下の9組。さらに敗者復活戦の勝者1組を加えた10組が決勝で争うことになる。

霜降り明星
スーパーマラドーナ
トム・ブラウン
和牛
ギャロップ
見取り図
かまいたち
ゆにばーす
ジャルジャル

(エントリー順)

ファイナリスト9組を紹介しながら、決勝の見どころを紹介したい。

『M-1』決勝進出者は?

9組の中で決勝進出経験があるのは、ジャルジャル、スーパーマラドーナ、和牛、かまいたち、ゆにばーすの5組。いずれも2017年の大会でも決勝に進んでいる。

決勝経験組の中でも優勝候補の筆頭と言われているのが、和牛スーパーマラドーナだ。

この2組は『M-1グランプリ』が休止期間を経て復活した2015年以降、3年連続で決勝に進み、常に優勝戦線に絡んでいる。特に和牛は2016年、2017年と2年連続で準優勝という結果に終わり、あと一歩のところで涙を呑んでいる。

和牛(2006年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

和牛

和牛は、理屈っぽいボケの水田信二と柔らかいツッコミの川西賢志郎のコンビ。それぞれの個性を生かした多彩なネタを持っている。

『M-1グランプリ』では序盤に伏線を張って終盤にそれを回収するような構成力のある漫才を見せることが多く、技術・発想ともに高く評価されている。ライブシーンの若手芸人の中では圧倒的な人気を誇っているのだが、決してその立場に安住せずにネタを磨き続けている。

スーパーマラドーナ(2003年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

スーパーマラドーナ

スーパーマラドーナの武智は『M-1グランプリ』に並々ならぬ情熱を燃やしている芸人の1人だ。

「誰よりも『M-1』のことを考えている」と公言し、ネタ作りに打ち込んでいる。一方の田中一彦は、『M-1』にもお笑いにも興味がなく、やる気ゼロ。この激しすぎるモチベーション・ギャップが彼ら独自の色になっている。

かまいたち(2004年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

かまいたち

優勝争いでこの2組に続きそうなのが、かまいたちとジャルジャルだ。かまいたちは2017年の『キングオブコント2017』でも優勝を果たしているため、『M-1グランプリ』で優勝すれば前人未到の2冠達成となる。

漫才とコントの「二刀流」を高いレベルでこなせる芸人はめったにいない。かまいたちは「感情を爆発させる」という賞レース向きの漫才を得意としているため、優勝も十分射程距離内にある。

ジャルジャル(2003年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

ジャルジャル

ジャルジャルは、2017年の大会でゲームのような掛け合いを演じる独創的な漫才を披露して見る人の度肝を抜いた。10組中6位という結果に終わったものの、審査員の1人である松本人志は最高点をつけていたし、「一番面白かった」という感想を残す視聴者もいた。

彼らは今年もセオリーにとらわれない革新的な漫才を用意している。勢いに乗れば優勝もありうる。

ゆにばーす(2013年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

ゆにばーす

ゆにばーすの川瀬名人も、スーパーマラドーナの武智と並んで、『M-1グランプリ』への情熱を公言する芸人の1人だ。「優勝をしたら芸人を辞める」と言っているほどだから、その熱量は桁違いである。『M-1グランプリ』の傾向と対策を徹底的に研究した彼の努力は実を結ぶのだろうか。

トム・ブラウン(2009年結成、ケイダッシュステージ)

トム・ブラウン

初決勝組の中では、トム・ブラウンに注目したい。

2人が一緒になってふざけて暴走する、実質的に「ツッコミ不在」の漫才が特徴的だ。幼稚園児がクレヨンで描いた落書きのような、自由奔放で力強い漫才である。型にはまったときの爆発力は他の追随を許さないだろう。

ギャロップ(2003年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

ギャロップ

見取り図(2007年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

見取り図

霜降り明星(2013年結成、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)

霜降り明星

もちろん、大阪の劇場では「スベリ知らず」と噂される実力派のギャロップ、とぼけた味わいのあるツッコミが魅力的な見取り図、よしもとの若手で期待度No.1の霜降り明星も、それぞれに強みを持っている。

 ◇

『M-1グランプリ2018』審査員は?

2018年の大会で審査員を務めるのは、オール巨人、上沼恵美子、サンドウィッチマン・富澤たけし、立川志らく、ナイツ・塙宣之、中川家・礼二、松本人志の7人(50音順)。志らくと塙が審査をするのは初めてだ。

この7人の顔ぶれを見ると、「東西の偏りをなるべく小さくする」「次世代のM-1審査員を育成する」という2つの意図を感じる。

東西格差の問題は特に重要だ。『M-1グランプリ』は吉本興業と大阪の朝日放送が主体となって行われるイベントであり、もともと関西色が強かった。決勝に進むのも関西芸人が圧倒的に多い。そこで審査員まで関西人で固められてしまうと、さすがに不公平だという印象を与えてしまう。そのため、今回は志らく、富澤、塙という非関西人3人が名を連ねているのだ。

塙が起用されたのは、これまでの漫才師としての実績が評価されたからだろう。『M-1グランプリ』や『THE MANZAI』での優勝経験こそないものの、何度も上位に食い込んでいるし、老若男女を笑わせる上質な漫才を作り続けている数少ない芸人の1人である。この世代でこれだけの実績を持っている非関西系の漫才師はそれほど多くないため、今後もお笑いコンテストの審査員として重宝されそうだ。

審査の傾向としては、志らく以外の6人が漫才師であるため、漫才の技術的な側面が主に評価されることになるだろう。過去の大会でも全体的にそういう傾向は見られた。

ただ、松本だけは漫才師としては例外的にやや発想力に偏った審査をする。志らくも、落語家の中では新しい笑いに対する理解があるタイプであり、自分が面白いと感じれば素直に高得点をつけるだろう。また、新しく審査員に加わる塙がどういう基準で採点をするのかも読めない部分がある。この3人の点数の付け方が勝敗を分ける鍵になるだろう。

「M-1グランプリ2018」決勝進出者9組

敗者復活組に注目

今回の大会では、敗者復活戦も例年にない激戦になりそうだ。本来ならストレートに決勝に行ってもおかしくないくらいの実力者がごろごろしている。

中でも、今年ラストイヤーを迎えるプラス・マイナス、若手でトップクラスの人気を誇るミキ、昨年の大会で上沼に酷評されたことでも話題になったマヂカルラブリーなどが最有力候補だ。

奇想天外なボケが光るからし蓮根、とぼけたキャラクターが魅力的なたくろう、圧倒的な勢いでボケを連発するインディアンス、歌舞伎調のツッコミが印象的な東京ホテイソンなどがそれに続く。

 ◇

「笑神籤(えみくじ)」の導入で、M-1はより「公平」になった

2016年までの『M-1グランプリ』では、決勝でネタを披露する順番が事前に決められていたため、それを元にして展開を予想する楽しみがあった。

だが、2017年には「笑神籤(えみくじ)」という新しいシステムが導入された。これは、くじ引きによって次にネタを披露する芸人をその場で決めていくというもの。いつ指名がかかるか分からないし、指名されたら心の準備をする暇もなくすぐに舞台に上がってネタを演じなくてはいけない。出場する芸人にとっては過酷なシステムだ。

今回もネタ順は「笑神籤」で決めることになっている。このシステムが導入された理由の1つとして「敗者復活組が有利になることを防ぐ」というのがあると思う。

2002年から2016年までの『M-1グランプリ』では、敗者復活組が最後に登場してネタを披露することになっていた。敗者復活組は当日行われる敗者復活戦で一度ネタを披露しているため、体が温まっている上に、最後に出てくるので観客の期待感も高まっている。そのせいで敗者復活組は点数が高くなりがちで、2007年以降は6大会連続で敗者復活組がベスト3に入り、最終決戦に進んでいた。

このように1組だけが圧倒的な優位に立ってしまう状況を是正するため、2017年大会では敗者復活組もほかのファイナリストと同列で「笑神籤」で選出されることになった。これによって「公平感」が演出され、見る側はよりフラットな目線で個々の漫才を楽しめるようになった。

 ◇

とはいえ、ネタ順が決まっていないので、当日の展開を予想するのは難しい。基本的には、「場慣れしている決勝経験組」と「新鮮さのある初決勝組」の対決という構図があり、そこに敗者復活組がどう絡んでいくのか、というのがポイントになる。

率直に言うと、実力や面白さではファイナリストの間にそれほど大きな差はない。勝敗は当日の空気で決まる。その時、その瞬間に一番面白いのは誰なのか。生放送でぜひ見届けてほしい。


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今となっては絶滅危惧種!? 集英社の少年誌『DUNK』【創刊号ブログ#3】

創刊号表紙

「少年誌」というカテゴリーは21世紀の今、絶滅危惧種に指定されるだろう。まだPCもスマートフォンもない昭和の時代の少年は、こうした雑誌で日々の憂さ晴らしをしていた。

 出版社の雄(というものが存在するかどうか定かでもない現在だが)、集英社から1984年にリリースされたのが「ボーイズの情報大図鑑」『DUNK』。大変残念ながら、プロ・バスケットボールなどで時折見られる豪快な「ダンクシュート」とは、縁も所縁もない。

 この雑誌名、もともとは日本語で「男区」と書く。これを「ダンク」と読ませ、英語表記に置き換え、「DUNK」で商標を取得したようだ。雑誌の世界とは、そんなダジャレのような命名が許された牧歌的な、いや雑誌がメディアの王様のような時代があった。

 

 実はこの『DUNK』、業界ではよくありがちな「二匹目のどじょう」だ。

 出版界では、真新しいコンセプトの雑誌が「当たる」と、他出版社からも類似雑誌が発行され、その「当たった」パイを奪い合う構図になるのが、ほぼ常識だった。

 ちょっと年配の方なら「写真週刊誌」というジャンルをご記憶だろう。新潮社から『フォーカス』がリリースされると、写真を主体としたタブロイド型の週刊誌がジャンルとして確立。講談社から『フライデー』、光文社から『フラッシュ』、学研から『テーミス』、文藝春秋社から『エンマ』、小学館から『タッチ』と続々と創刊された。

 このうち現在も生き残っているのは、トップランナーだったフォーカスではなく、フライデーとフラッシュである点は非常に興味深い。

 最近では「ちょいワル」で名を挙げた『LEON』に続く、オジサン向け男性誌群が思い当たる。

 『DUNK』は、学研から発行されていた『BOMB!』の二番煎じ。

 少年向け…といえばその頃、「学習誌」というのがしかるべき方向性であり、少年は余計な関心事などに脇目も振らず、学術に勤しむべきだった(もちろん、そんなわけもないのだが)。

 そのため、当時も『明星』などのアイドル誌は存在したが、やはりそれらは女の子読者向けであり、男の子が買って読むものではなかった。それを少年向けに作ってみせたのが、「学習と科学」で名高い「学研」だったのだから、少々興味深い。

 振り返ればこの隙間は確かに存在したはずだ。エロ雑誌でもない、大人の男性誌でもない、ヌード雑誌でもない。おかんに見つかったとしても、雷を落とされることのないギリギリのグラビア写真までが掲載されている…この層を狙った少年向けの雑誌は、確かに多くはなかった。

 学研はハンディに持ち運べるよう、また判型としてすでに保有していた『中2コース』などの学習誌と同様B5版にすることで、印刷工程もコストも冒険をせずにリリースできたことだろう。

 学研の学習誌もアイドルを取材し掲載してはいたが、学習誌で取材した素材をそのまま少年誌に転用することで、取材コストもかけずに済んだことは想像に難くない。

 1979年に創刊、1981年よりアイドル月刊誌となった『BOMB!』がヒットすると、むしろこちらで取材したアイドル素材が同社の学習誌へと流用されるようになったと記憶している。

 そして『BOMB!』の一人勝ちだった市場に殴り込みをかけたのが、集英社だった。判型も同じ、そして「アイドルと言えば」まっさきに思いついた当時の小泉今日子さんを表紙に、そしてグラビアに起用し、大々的に売り込みを行った。

 コミック誌などに掲載しているグラビア取材により、その素材に苦労することがなかった集英社は、ここぞとばかりにそうした写真を惜しげもなくつぎ込んだ…と見ている。

 付録にはシルバーのてかてかのステッカー。このテカテカのステッカーというのは、気合いの入りようを体現している。当時の印刷は、MBCYの4原色を組み合わせることでカラー印刷を実現しているが、シルバーやゴールドなどは「特色」と呼ばれ、それ単体の特別な色を使用しないと印刷できなかった(今もどうなのかは知らない)。

 しかも、それがテカテカと光るシルバーのステッカー付である。そのコストを顧みない気合いの入りようが伺える。

 表4、つまり裏表紙には、原田知世さんを採用したキリンビール株式会社の広告が入っている。「キララ」というブランドの清涼飲料。「キリンビバレッジ」ではなく、キリンビールが清涼飲料を販売していたという、そんな時代的な背景さえもが把握できる。

 過去を振り返る広告は、創刊号マニアにとっても、なかなかたまらない素材のひとつだ。つまり、創刊号をめくるだけで、時代性が如実に蘇って来るからだ。

 表紙を捲ると表2にはビクターの「AV IO(イオ)」という「パーソナルコンピュータ」の広告。なんと、あのビクターがPCを作っていたとは知らなかった。注意深く目を通すことなく、「ビクターだからオーディオの広告」と長年思い込んでいた。こうして見直してみると、興味深い事実が浮かび上がって来るものだ。

 残念ながら、前回紹介した『NIKITA』のように30ページ近くにわたって広告が続くわけではない。見開きの左はきょんきょんのグラビアがスタートしている。当時は21世紀の現代よりも、雑誌が隆盛を誇っていたとして過言ではない。それでも少年誌への広告の入りと、ファッション誌の広告収入とでは、これほどまでに差が広がってしまうものなのだ。

 きょんきょんのグラビアが続いたあと、目次に。目次は創刊号のその後を占う重要なページだ。ひと目で企画がわかるだけに、やはりここでも注目してみよう。

 目次を見てわかる通り、巻頭は小泉今日子さんのグラビア20ページだ。うむ、今眺めても、きょんきょんはやはり可愛い。P26からは「スターの愛用グッズ200」というカタログになっている。

 ちなみに目次の見開きに資生堂「TECH21」の広告が入っている。

「TECH21」と言えば、ヤマハのGPライダー・平忠彦さんを起用し、爆発的ヒットを記録した男性用化粧品。しかしこの1984年の広告に平さんの姿はない。私の記憶が定かなら、平さんがTECH21カラーのヤマハFZR750を借り「キング」ケニー・ロバーツと鈴鹿8時間耐久レースに挑んだのは1985年。その前年はまだ平さんを起用していなかったのかもしれない。興味深い。

 企画「スターの愛用グッズ200」ではアイドルの愛車から愛用の楽器やワードローブまでが紹介されている。

 近藤真彦ことマッチの「スーパーマーチ」や、いまや「先生」と呼ばれている三原順子のセリカXXなどなど、さらにサザンオールスターズの当時の楽器類、アイドルたちのワードローブなど今となっては、なかなか雑誌で眺めることのできないコンテンツではないか。

 その後は、柏原芳恵さんのモノクロ・グラビアなどに割かれているが、今見直すと、すっかりコントラストが強く「飛んでいる」印象が強い。印刷の技術もやはり現在までに「革新」が進められているのだろう。この程度の印刷なら、今はコピーで再現できるに違いない。

 つい笑ってしまったのは「きゃぷてんタマ」のコーナー。先行した『BOMB!』にも設けられていたが、青春期の痛い少年たちの投稿コーナーだ。あまりにもバカバカしい内容で呆れるばかりの恥ずかしい体験談がてんこ盛り。くだらない体験談を読んでは、「バカなのは自分ばかりではない」と当時の少年は自らを慰めた。

 それにしても、なぜ「タマ」だったのか、「たま」さぶろとしては気になるばかりである。

 こうした賑やかな紙面ではあったが、採算が合わなかったのだろうか、バブルがはじける前の1990年には休刊となってしまった。

 先行した『BOMB!』が発行部数3万程度ながら、いまだに頑張っている事実を考えると、集英社にはもう少し根性を見せてほしかったなぁと思うばかりである。


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「咳をしても一人」の作者を知っていますか? 書店員歴20年の私の日常を変えた1冊とは。

「友人に誘われて…」。

部活を決めるときみたいな、そんな安易な理由で、私は書店員になった。それから20年。こんなにも長く、書店で働くことになるとは思ってもみなかった。

思いのほか体力が必要だったり、本に向き合う時間が取れなかったりすることも、あまり気にならず続けてこられたのは、毎日これでもかと入荷してくる、見たことも聞いたこともない言葉や世界にあふれた本に接することが楽しかったのだ。

本を愛する書店人と働くことも愉快だった。

太宰治の『道化の華』を延々とそらんじる人、シェイクスピアの『夏の夜の夢』が読みたいと言ったら「これがいい入門になるから」といって『ガラスの仮面』を貸してくれた人、忠臣蔵がきっかけで歴史好きになったのに、最終的には1300年前の書簡を読み解く新書『飛鳥の木簡』を読んでいた人……挙げればきりがない。

たくさんの本と変わった人たちに囲まれて、書店での日々は退屈しなかった。

飽きない、ということは、仕事を続けていく上で一番大切なことかもしれない。

教科書に載ってた、「咳をしても一人」の人

書店員になってよかったことの一つに、本との思わぬ出会いがある。

『尾崎放哉全句集』(ちくま文庫)がそうだ。

『道化の華』をそらんじていた人に紹介してもらった宮沢章夫の『牛への道』(新潮文庫)の中で、尾崎放哉(おざき・ほうさい)の句が紹介されていた。

 咳をしても一人

圧倒的な淋しさの余韻が尾をひくこの句に聞き覚えがあった。確か学校で習ったはずだが、自由律俳句と言えば俳人の種田山頭火が有名で、放哉の名前はすっかり忘れていた。

 入れものが無い両手で受ける

この句なんか、とても放哉らしくて味わい深い。

「どういう状況だよ!」とまず思うし、入れるもの次第ではこぼれるんじゃないかと心配で仕方ない。

入れものがないくらい貧乏なら哀しすぎるし、手近に入れものがなく無精したならお馬鹿さんだ。

考えれば考えるほど放哉の句が頭から離れなくなり、私は『尾崎放哉全句集』を手に取った。

 墓のうらに廻る   「怖いよ!」

 爪を切ったゆびが十本ある   「だから何?」

 淋しい寝る本がない   「女子かよ!」

ツッコミをいれずにはいられない、クセの強い句が並んでいた。

尾崎放哉全句集

読むだけでも十分おもしろいのだが、どう解釈するかが難しい。「解説を読めば」と言うなかれ。それでは放哉の句に向き合えていない。どう読むかは私の自由にさせてもらう。

まずは黙読、音読、そして考えを巡らせる。ただそのままを詠んでいるだけかもしれない、いやきっと深い意味があるに違いない。

わかったような気になって、結局ちっともわからなくて、そのまま受けとめるしかないかとまた音読する。答えはどこにもない。それで構わない。

人間誰しも、わからないことは不安だ。恥をかいたり、失敗したりするかもしれない。

特に仕事や人間関係ではより速く、より簡単に正解がほしいと思ってしまう。

そんな時「わからないことを楽しめ」とほくそえんでいるような、放哉の句を思い浮かべる。

わからないを受け入れて、わからないを考える。答えがないかもしれないなら、おもしろがるほうがいいじゃないかと開き直るのだ。

他にも放哉の句は、私たちの日常に取り入れられる。

何もいいことがない日にはこの句を。

  犬よちぎれるほど尾をふつてくれる

無駄に過ごしてしまった日にはこの句を。

  昼の蚊たたいて古新聞よんで

替え歌ならぬ替え句にしてしまってもいい。

柱の角に小指をぶつけたら、「小指をぶつけても一人」

コンビニでプリンを買ったのにスプーンが入ってなかったら、「スプーンがない箸ですする」

淋しさ、哀しみ、怒りが少しやわらぎませんか。

さあ、あなたの人生に放哉を!

連載コラム:本屋さんの「推し本」

本屋さんが好き。

便利なネット書店もいいけれど、本がズラリと並ぶ、あの空間が大好き。

そんな人のために、本好きによる、本好きのための、連載をはじめました。

誰よりも本を熟知している本屋さんが、こっそり胸の内に温めている「コレ!」という一冊を紹介してもらう連載です。

あなたも「#推し本」「#推し本を言いたい」でオススメの本を教えてください。

今週紹介した本

『尾崎放哉全句集』(ちくま文庫)

今週の「本屋さん」

中村明香/ ジュンク堂書店天満橋店ビジネス書担当

どんな本屋さん?

中村さんが勤める「ジュンク堂書店天満橋店」は、品揃えの豊富さとジャンル分けの細かさが特徴のジュンク堂の中でも特に、話題書やフェアにかける思いがびびっと伝わる売り場になっているんだそう。ある出版社の営業さんは、入り口付近のコーナー棚に誘われて入店すると、なかなか出てこられなくなってしまう、と語ります。

ジュンク堂

(企画協力:ディスカヴァー・トゥエンティワン 編集:ハフポスト日本版)


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貧困家庭に生まれた天才高校生が、お金のためにカンニングを許す。映画『バッド・ジーニアス』が描いた格差社会

学生たちのハラハラドキドキのカンニングバトルを描いて、ロングランヒット中の『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』。「高校生版の『オーシャンズ11』」との呼び声も高いが、学歴偏重社会や格差の現実なども描いた社会派な面もあるエンターテインメント作品だ。

貧しい家庭に生まれた成績優秀な女子高校生リンが、試験やテストで友人に「カンニング」のビジネスをもちかけられる、というストーリーになっている。

この度、その監督のナタウット・プーンピリヤと主人公・リン役のチュティモン・ジョンジャルーンスックジンが来日した。学歴偏重社会や格差の問題はタイのみならず、日本にも横たわるテーマである。監督とチュティモンさんに、タイの現状などについても聞いた。

主人公リンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジン

子供が落第をしないよう、親がいろんな手立てをする。その気持ちは子供にとって「重い」

プーンピリヤ監督は、本作のプロデューサーから中国で実際に起こったカンニング事件をモチーフにして映画を作らないかと話を持ち掛けられ、1年以上をかけて脚本を執筆した。

エンターテインメント作品に社会問題がうまくハマった本作であるが、そのバランスとりには苦心したようだ。

プーンピリヤ「自分たちで取材した実際の社会問題や、自分たちの経験談を取り入れようとしていたんですが、最初はその部分が多くなってしまい、真面目過ぎる映画に傾いていたんです。それで泣く泣く削って今のバランスに落ち着きました」

監督は大学を卒業後、映像の仕事に就き、その後ニューヨークで学んだ経歴を持つ。監督は、本作を作るにあたって、取材をしてみて、どんなことを感じたのだろう。

プーンピリヤ監督「自分の場合は、学生時代から映画が好きで、映画を撮りたいと思って時間を割いてきました。今回の映画を作るにあたって、いろんな人にインタビューしてみて、子供が落第をしないように、親がいろんな手立てを考えているということがわかりました。ただ、同時に、その気持ちは子供にとっては重いものだということもわかりました。全員が勉強が得意とは限らないですからね」

学校の成績は常にトップで、家は裕福ではないものの、奨学生として名門に入ったリン役のジョンジャルーンスックジンの場合はどうだろうか。

ジョンジャルーンスックジン「私はずっと勉強は大事にしてきました。やはり生きていく上での基礎になるものなので。だから、学生時代から仕事をやってきましたが、学業を優先できるようにマネージャーにも相談していました。この春に大学を卒業しましたが、いずれ院に行きたいという気持ちも持っています」

貧困のため、学ぶ機会自体が少ない。その格差が描かれる

本作は、学歴偏重社会に一石を投じるものでもある。しかし、筆者が見ていて思ったのは、学ぶということ自体は否定されるべきものではないし、問題は、また別のところにもあるのではないかということだ。

例えば、映画の中でリンは貧困ながらも勉強に対しての意欲がある。しかし、貧困であることで、学ぶ機会自体が少ない、という状況もあるのではないか。

プーンピリヤ「確かに、タイでもそんな状況があり、『お金で教育の機会を買う』という言い方もあるくらいです。例えばタイでトップ10に入る学校というのは、何万、何十万バーツの授業料が必要だし、お金持ちの子供が多いことは事実です」

「ただ、映画にも出てくるように、奨学金で通える子供もいます。教育は大切です。ただ、試験の点数で将来が決まることには疑問を持っていて、将来が決まるということであれば、それだけではないとも思うんです」

カンニング映画といえば、我々がイメージするのは、フランスの「ザ・カンニング」や日本の「That’s カンニング! 史上最大の作戦?」などのコメディ色の強いものだったが、この作品にはコミカルな部分は少なく、むしろビターな後味が残る。

プーンピリヤ「それは意図通りなんです。なぜかというと、私はコメディが撮れない、面白くない人間なので…。(笑)」

そう冗談めかすが、ビターに見えるのは、主人公のリンとともにカンニングに参加したバンクというキャラクターの描き方も大きいだろう。主人公リンと境遇が重なるバンクは、母子家庭で貧困の中勉強に励み、名門高校の奨学生となった。

リンもバンクも、カンニングは悪いことだと知っている。

しかし、一大カンニング・プロジェクトに加担してしまうのは、彼らが貧困家庭に育ち、お金を必要としているからだ。お金を払ってでも試験に受かればいいと思う富裕層の学生と、お金で買った成績でも通用してしまうという社会に問題がある。

バンクとリン

ある意味、バンクはそんな学歴偏重社会、経済至上主義社会の「被害者」でもあるような場面も描かれ、そこがビターに見えるし、後を引く所以である。

プーンピリヤ「私が信じている言葉に『社会が人を変える』というものがあります。バンクはまだ学生で、自分探しをする世代で、彼の考え方は社会の影響を受けて良い方向にも悪い方向にも変化していきます。若いときは周囲の環境で考え方が変わってしまうものなので、彼をちゃんと救済できる環境、社会でなければいけないということを考えて撮りました」

監督は、この映画の中での救済は、リンの決断ではないかと語る。

プーンピリヤ「欧米の言葉に『絆創膏をひっぺがえす』というものがあるんです。今は痛いかもしれないけれど、将来のためには必要な措置もあるということです。つまりは、リンの告白こそが、バンクの救済措置ではないかと思うんです」

ナタウット・プーンピリヤ監督

「感情豊かで愛嬌がある」というステレオタイプを覆したヒロインの魅力

本作の魅力は、ハラハラドキドキの展開、社会問題との接合だけではない。

“ジーニアス”なヒロイン、リンのキャラクターによるところも大きい。通常、日本を含むアジアのヒロインというと、明るく健気、感情豊かでちょっと抜けたところもあるが、愛らしいというのが定番であったように思う。もっとも、昨今はそんなヒロイン像を覆そうという作品もある。

本作の主人公のリンは、どちらかというと愛嬌がなく、感情も大きくは表現しない。かつてのよくあるヒロイン像というのなら、リンと友達になり、カンニングを依頼するグレースのほうが近いのではないだろうか。

プーンピリヤ「リンはリーダーシップが取れるキャラクターなので、甘い雰囲気ではそう見えないと思いました。今回の登場人物は自分の中の一部が反映されていると思います。リンの考え方は現在の自分に近いです。バンクは過去の自分。パットはお金持ちでイケメンだから、そうなりたいと思う気持ちもないわけではないし、グレースのような可愛くて癒してくれるタイプは彼女にしたいと考える人は多いかもしれないけれど、何かを与えるわけではないキャラクターなんです」

「凝り固まったジェンダー観」でキャラクターが描かれない新しさ

リンを演じたジョンジャルーンスックジンは、撮影が始まったときには、この”静”の演技が難しかったという。

ジョンジャルーンスックジン「私もどちらかというとリーダーシップはあるほうだけど、リンのように自分に自信があり、何かを見てすぐに考えが浮かぶような天才的な人間ではありません。だから、内面から近づけて演技するのは大変でした」

「でも、表面的なものにはしたくなかったので、アクティング・コーチや監督と相談しながらリンを掴んでいきました。私自身は、友達と騒いだりもしますが、リンの場合は、本当に体から感情が沸き起こったときにしか、表情や行動には出さないから、心で思ってもないのに、大げさに行動するような表現にはしないようにと考えていました」

プーンピリヤ「チームのリーダーはポーカーフェイスで、気持ちを周囲に読み取らせないのは定番です。そんな部分をリンというキャラクターの魅力にしたかったんです。ラッキーだったのは、ジョンジャルーンスックジンさんが、そんなリンの抑えた演技がきっちり表現できたことです。顔の表情をちょっと動かすだけで、彼女が何を考えているのかがわかる演技でした。グレースの場合は真逆でしたよね」

多くの女性キャラは、感情豊かで大げさに行動することを求められすぎではないかとすら思えてくるし、昨今、日本の作品でも、そんな決めつけから放たれたキャラクターを描こうとしていることもある。ドラマ『アンナチュラル』で石原さとみが演じた役なども、そんな風に誇張したキャラクターとは一線を画したものにしようとした結果と言われている。

リンの表情に変化は少ないのだが、足が一歩下がる仕草で心の中のとまどいを表し、まばたき一つで驚きが表現されていた。そんな些細な動きのほうが、むしろ伝わることが多い。凝り固まったジェンダー観でキャラクターが描かれていないことも、本作の良さではないかと感じる。

(執筆:西森路代、編集:生田綾)

作品情報「バッド・ジーニアス 危険な天才たち

新宿武蔵野館ほか、全国で公開中

監督:ナタウット・プーンピリヤ

脚本:ナタウット・プーンピリヤ、タニーダ・ハンタウィーワッタナー、ワスドーン・ピヤロンナ

キャスト:チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、チャーノン・サンティナトーンクン、イッサヤー・ホースワン、ティーラドン・スパパンピンヨー、タネート・ワラークンヌクロ


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